【サムライに抱きつかれたペリー】ライカ北紀行 ―函館― 第85回

歴史

宮中晩餐会(天皇・皇后が国賓をもてなすために皇居宮殿・豊明殿で催す晩餐会)、エリゼ宮(フランス大統領官邸)の晩餐会など、古今東西、賓客をどんな料理でもてなすかが焦点となる。

『ペリー提督日本遠征記』、小泉武夫『幻の料亭「百川」ものがたり』を手許において、黒船来航におどろく幕末日本のおもてなしを見てみよう。

1854(安政元)年2月、米国大統領の親書への幕府の返書をめぐって、会談が横浜村の応接所で行われた。そのあと、ペリー一行の労をねぎらい、昼食が江戸幕府の威信をかけて振舞われた。

その献立が記録にある。「二月十日横浜応接所饗応献立書」。格調高い本膳料理。一の膳、二の膳、三の膳と料理はおよそ90種、菓子3種で品数はびっくりするほど多い。日本橋の老舗料亭「百川」が腕をふるった。

ひらめ、鯛などの刺身、吸物、煮物、焼物で、米国人の口にあう濃い味の肉料理はない。「珍しいご馳走に、あまり食欲を満たされず」と遠征記は記す。デザートのカステラの一切れに満足しただけで、ひもじい腹をかかえて船にもどったのだろう。だが、日本側のもてなしに好意を感じたと評価している。

次は、米国が幕府側を招待。首席の林大学頭(本名:林復斎、儒学者)ら応接掛と通訳は、ペリーの船室で歓待された。テーブルには高級ぶどう酒やシャンパンがならび、牛や羊の肉、スープ、果物を大いに飲み食いした。その合間には、水兵によるコミカルな黒人音楽ショーも。

応接掛の松崎満太郎はしたたかに酔い、両手をペリーの首に回してよろよろと抱きしめ、「日本もアメリカも心はひとつ」とくりかえし、千鳥足で退艦したという。いつもはこわもてな提督は、思わずニタリと笑ったか否か……。

1854(嘉永7)年4月、ペリー艦隊が箱館に来航。

箱館の山田屋寿兵衛宅で行われた会談の図。左から3人目がペリー。右端の着席者が松前勘解由 函館市中央図書館蔵
箱館の山田屋寿兵衛宅で行われた会談の図。左から3人目がペリー。右端の着席者が松前勘解由 函館市中央図書館蔵

豪商・山田屋寿兵衛宅で、提督と松前藩家老・松前勘解由(かげゆ)との会談が行われた。さきに家老が艦隊訪問のおり、酒肴(しゅこう)の饗応があり、お返しに松前藩は大いにもてなそうと気を使っている。だが、饗応の記録は見当たらない。遠征記の図には、従者が茶菓などの盆を持つ姿があるだけ。

箱館の港が思いのほか良港であり、二人の水兵の死に礼を尽くして埋葬してくれた箱館に好意をもち、感謝の意をあらわしペリー提督は箱館を去った。

ペリー来航160周年記念式典に参列した米国側参列者。右より ニューポート市長、ロードアイランド日米協会会長(2014)
ペリー来航160周年記念式典に参列した米国側参列者。右より ニューポート市長、ロードアイランド日米協会会長(2014)

横浜でのペリーへのおもてなしは、腹ペコに終わった。時代は変わる。寿司、刺身などの和食は海外でも人気だ。

こんどは、懐石料理の美酒佳肴(かこう)でおもてなししますよ。

今年、ペリー箱館来航168年。

ペリー提督来航記念碑前で行われたペリー来航160周年記念式典の様子(2014)
ペリー提督来航記念碑前で行われたペリー来航160周年記念式典の様子(2014)

●道案内
ペリー提督来航記念碑 市電「末広町」下車、徒歩6分(地図へ

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