【五稜郭の築城者】武田斐三郎の顔は光りて ライカ北紀行 ―函館― 第81回
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一の橋、二の橋をわたり表門の藤棚をぬけ、左に折れるとレリーフが現れる。
五稜郭を築城した武田斐三郎(あやさぶろう)の顕彰碑。その斐三郎の顔が、てかてかと光っている。いつしか英才・斐三郎の顔をなでると頭がよくなる、との言い伝えが修学旅行生にひろがった。僕もあやかって触ったことがある。
外国人に五里四方の遊歩を許したため、函館山のふもとにある箱館奉行所が山の上から丸見え。港にちかく外国の軍艦からの砲撃も容易なことに奉行は危機感をもち、奉行所の移転を幕閣にあおいだ。
そこで、艦砲射撃の砲弾がとどかぬ港から4キロほどのところに西洋式の土塁、濠で防禦する五稜郭の築城が認められた。
箱館奉行からその設計と工事を命じられた斐三郎は、蘭訳の築城書一冊だけをたよりに箱館在留の仏人にも意見をもとめ独力で設計、築城にはげんだ。
のちに、五稜郭は英国などの列強諸国との交戦はなく、内戦の戊辰戦争でその最後の舞台となった歴史の皮肉がある。
1827(文政10)年、大洲(おおず)藩(愛媛県)下級藩士の家にうまれ、大坂の緒方洪庵の適塾で蘭学をまなび、これから英語の世だと江戸で英語、さらに佐久間象山に西洋兵学を教わった。
1854(安政元)年、ペリーが箱館に来航し、そのとき斐三郎は蘭語の筆談で会見に立ち会っている。
箱館開港の年より北の地で力をつくして10年。1864(元治元)年、五稜郭の完成を見ずに箱館をはなれ、江戸開成所(のちの東京大学)の教授となった。
箱館では、奉行所ちかくの酒・雑貨商をいとなむ名主の妹をめとる。彼女は小町といわれ、評判の美人で男の子を生んだが、早逝した。
幕末から維新への日本の夜明けに政治の表舞台にたたず、次代をになう人材を育てた教育者であり、実学に徹した技術者であった。
1880(明治13)年、東京の自宅で静かに世をさった。53歳。
●道案内
五稜郭公園 市電「五稜郭公園前」下車、徒歩15分(地図へ)