【決死の黒船模写行】船大工 続豊治 ライカ北紀行 ―函館― 第79回
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函館港の一角に、160年あまりまえ、幕末に造られたとは思えないほどスマートな箱館丸が復元されている。
続豊治(つづき とよじ)は豪商・高田屋二代目・金兵衛のもとで船大工の腕をみがくが、露国との密貿易の疑いで高田屋は没落した。続は心ならずも仏壇師を生業とする失意の日々を送っていた。
1854(嘉永7)年、ペリーが来航し箱館が開港。続にとり黒船は、運命の出会いとなった。船の見取り図を描きたい。捕まれば、死罪は免れぬ。だが、その思いは深まるばかりであった。
時代小説家・浮穴みみは『鳳凰の船』で、主人公・豊治が黒船のまわりで必死に筆を走らせる姿を描いた。
―夜陰に乗じて豊治は小舟で漕ぎだした。間近で見る外国船は、まるで城のようであった。
あの帆のでけえこと、いってえ何尺あるんだべ。
ああ、俺もこんな船、造りてえ。矢立と帳面を握りしめ、
息を詰めて目を凝らす豊治の頭上で、人声がした。
異人が叫ぶ声である。
(中略)
豊治は、ときの箱館奉行の面前に引き出された―
箱館奉行の堀利熙(ほり としひろ)は、死を覚悟した続に、お前、とんでもないことをしてくれたな。そのぶん箱館のため、お国のためにつぐなえ。仏壇づくりから足を洗って船大工にもどれ。黒船の見取り図を描いて、名人の仕事をやれ。続は、奉行の思いがけない言葉に感極まった。
彼には、船造りにかけては天才的なひらめきと技量がある。なんと3年後の1857(安政4)年、2本マストの美しいスク―ナー型洋式帆船・箱館丸が港に浮かんだ。
箱館丸に乗船して江戸へもどる堀奉行は、続に船頭を命じる。大嵐のなか、少しの損傷もなく品川に着いた。この船が蝦夷地で、しかも和人が造ったと江戸市中で大きな話題を呼んだ。
新島襄が米国に密出国を企てたとき、続の息子・福士成豊(ふくし_なりとよ)は、死罪を覚悟のうえで手助けした。今、箱館丸のほど近くに、脱国時に武士の魂である刀をたずさえた新島襄のブロンズ像がある。
国禁を犯した勇気ある先達をしのばせるものが居ならんで、開港場の気概を現わしている。
●道案内
箱館丸 市電「大町」下車、徒歩8分(地図へ)