【土方歳三、最期の決戦】ライカ北紀行 ―函館― 第67回
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1868(明治元)年10月、戊辰戦争の最北端・箱館五稜郭の戦いが切って落とされた。
新天地をもとめ、品川沖から敗走した榎本武揚ひきいる旧幕府艦隊は、仙台で土方歳三を頭とする新選組などをのせ、箱館の十里北に上陸した。
部隊を二手にわけ、大鳥圭介ひきいる主力が本道、土方歳三が指揮する部隊は間道をすすみ、官軍をやぶり、あれよあれよという間に五稜郭を占拠した。
さらに、700人ほどをひきいた土方は、鉄壁の守りといわれた松前藩・福山城を落とし、藩主は津軽におちのびる。だが、江差で暴風雪が吹き荒れ、艦隊の旗艦「開陽」をうしない大きな痛手となった。
12月、蝦夷地平定を祝い、箱館港の弁天砲台、艦隊、五稜郭城はいっせいに101発の祝砲をはなつ。五稜郭にて入れ札(選挙)により、総裁・榎本武揚、陸軍奉行・大鳥圭介、陸軍奉行並・土方歳三などの面々を選んだ。
翌年4月、新政府軍の反撃がはじまる。江差の北に上陸し、ひたひたと箱館に迫っていく。二股口の戦い。江差から箱館にいたるこの戦略地点で、土方歳三ひきいる200人あまりが奮戦して猛攻の敵方を撃退した。
「土方君将たれば、能く機に応じ勉強して防ぐ…寡をもって大敵にあたり動かざるは土方君の力なり」と、土方の戦いが称賛された。
5月、新政府軍の総力をあげて海と陸の攻撃がはじまった。その猛攻撃により弁天砲台と五稜郭のあいだが分断された。
土方は、馬にまたがり500人あまりをひきいて今の函館駅ちかくの一本木関門にいたった。そのとき、敵兵が背後にまわったと浮き足立つ兵を、必死に土方が叱咤激励するなか、狙撃され馬上から転げ落ちた。
京都で剣客として勇名をはせた新選組副長・土方歳三。五稜郭落城の六日まえ、勇ましく有能な武将として波乱に富んだ生涯を閉じた。ときに、1869(明治2)年6月、34歳であった。
●道案内
一本木関門 函館駅より徒歩15分(地図へ)