【異国へいざ行かん】ライカ北紀行 ―函館― 第63回
Guideto Japan
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神社の祭りでにぎやかな夜、小舟は、その底に若い武士を伏せて岸をはなれた。途中、役人がきびしく「誰だ!」と誰何(すいか)。外国人居留地につね日ごろ出入りする外国商社の番頭は、櫓をこぎながら商船に急ぎの届け物があると大声を張りあげ、冷汗の危機を脱した。
たどりついたベルリン号の船長は、役人から見えない船のうら側から若者を受け入れた。1864(元治元)年のことだ。
若者は、のちに同志社英学校(後の同志社大学)を創設した新島襄(じょう)。幕末、安中藩(群馬)江戸屋敷でうまれ、向学心にもえ、自由なアメリカにあこがれた若者であった。
船賃にと船長に武士の魂である刀をさしだし、船の雑務をただでこなし、箱館から上海経由でアメリカはボストンにわたった。船長からジョーと可愛がられ、現地では人々の助けをうけ9年間、大学や神学校で学んだ。
吉田松陰は渡航禁止の国禁を犯して刑死した。それから10年後、新島は、開港場の箱館で英語をまなぼうと伝手をたよってハリストス正教会・司祭ニコライの宿舎に身をよせ、ニコライに日本語をおしえ、ロシア領事館の仕官より英語をおそわった。
新島のアメリカへの思いをきき親身に手助けしたのが、沢辺琢磨と福士成豊。坂本龍馬のいとこの沢辺は、江戸で事件にまきこまれ流れ着いた箱館で、ひょんなことから山上大神宮の宮司となっていた。
新島の熱望にほだされて、なんと攘夷論者の沢辺は、英国の商社・ポーター商会の番頭で英語に通じた福士を紹介したところ、二人はたちまち意気投合。やがて、アメリカ商船の船長が乗船を承諾したと新島に告げ、福士も国禁をやぶる覚悟で小舟の櫓をこぎ、船に送りとどけた。
新島が密出国した外国人居留地跡に建つ渡航の地碑に、自筆の漢詩が刻まれている。この漢詩は、途中の上海で詠んだ。
男児志を決して千里を馳す
自ら辛苦をなめてあに家を思わんや
却って笑う春雨風を吹くの夜
枕頭なお夢む故園の花
異国へいざ行かんと強く願いつつ故郷を思う、この二つの気持ちの間でゆれうごく。
●道案内
新島襄海外渡航の地碑 市電「末広町」下車、徒歩7分(地図へ)