【二人の文士】ライカ北紀行 —函館— 第56回

文化

太宰治といえば『斜陽』とか『走れメロス』が頭にうかぶ。だが、今の世、亀井勝一郎の作品と聞かれ、答えられる人は稀(まれ)であろう。

この二人に共通するのは、太宰は青森・金木、亀井は函館と、津軽海峡をはさんだ地の生まれ。津軽弁と函館弁はなまりが似て、行き来のある青函のつながり。ともに大金持ちの息子であった。

函館・元町の大三坂を登り切ったカトリック元町教会のそばに、亀井勝一郎の実家・旧亀井邸は今も残っている。うすいピンクに塗られた2階建の洋館は人目をひく。亀井は函館貯蓄銀行の支配人を父に持ち、裕福な家庭に育った。

旧亀井邸。大火で焼けた生家跡に建てられた。勝一郎は一年ほどここで過ごしている(2020)
旧亀井邸。大火で焼けた生家跡に建てられた。勝一郎は一年ほどここで過ごしている(2020)

中学のころ、つぎはぎだらけの服、ひびわれた手で電報を届けてくれた小学時代の友の姿をみて、富めるものと貧しいものとは親の財力の差、いわば偶然なのだと思い知る。これは、罪悪そのものかと苦渋の念をもった。

旧制函館中学(現・函館中部高校)、旧制山形高校(現・山形大学)を経て進んだ東京帝国大学文学部美学科で、富めるものの後ろめたさもあってか、マルクス主義に染まり共産党に入党。治安維持法により逮捕され、2年半におよんだ獄中のなかで転向し、古典文学に目覚めていく。

亀井勝一郎の端正な顔は美貌だった母親ゆずり 函館市文学館蔵
亀井勝一郎の端正な顔は美貌だった母親ゆずり 函館市文学館蔵

1935(昭和10)年、亀井は同人誌「日本浪曼派」の創刊にかかわり、そこで、自殺未遂をくりかえし、芥川賞をくださいと選考委員・川端康成などに懇願の手紙を送った無頼派・太宰治と出会った。

井の頭公園界隈でお互いに家がちかく、青函のよしみもあって交わりを深める。日暮れともなると、太宰が玄関先にあらわれ飲み屋に連れだって、津軽なまりで苦も楽も語らい、亀井は飲めない酒も飲めるようになった。

余談になるが、そのころ、僕も井の頭公園のほとりで生まれたばかりであったが、同じ時空にあったかと思うと、二人にはことさら親しみをおぼえる。

亀井は1937(昭和12)年より奈良をめぐって仏像の美と古都の風土に魅せられ、名作『大和古寺風物誌』を生み、新たな境地を切りひらいた。このころ、太宰は生涯のなかでも健康で心静かな時をおくり、古里の幼友達をたずね、乳母たけとも感動の再会をはたし、小説『津軽』を世に出している。

亀井勝一郎は戦後、青春の彷徨『我が精神の遍歴』、さらに人生論、恋愛論などを展開し広く読まれたが、1966(昭和41)年、59歳で世を去った。

亀井勝一郎生誕の地に立つ石碑(函館市)
亀井勝一郎生誕の地に立つ石碑(函館市)

亀井家を継いだ弟・勝三さんが、僕にぽつりともらした言葉がある。「兄貴は、若いころは腕白だったからな」。なんと実家ちかくの函館ドックの争議にオルグして逮捕され、父親が貰い下げたことや、獄中生活で家族に迷惑をかけたことを言ったのだろう。

晩年は、函館弁でイカ刺しをどんぶり一杯食べたいと、いつも函館を思い出していたという。

●道案内
旧亀井邸 市電「十字街」下車、徒歩10分(地図へ

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