【高田屋嘉兵衛】 ライカ北紀行 —函館— 第35回
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小学生のころ、先生から物さしでゴツンと頭をたたかれた。こんなえらい先祖をもつのに何だ、いたずらっ子のおまえは! 修身の教科書に高田屋嘉兵衛が登場したのだ。名高い初代をもつのも迷惑さ、と高田屋の七代目高田嘉七さんは笑った。
その嘉七さんに『菜の花の沖』で司馬遼太郎が語らなかったことを知りたいと、お話をきいた。函館の港ちかくの旧市街で自ら運営する北方歴史資料館でお会いしたが、ここには、代々秘蔵され、いま解読がすすめられている高田屋日誌などのお宝がつまっている。
240年まえ、淡路国にうまれ、水主、やとわれ船頭から身をおこして一代で天下の豪商となった嘉兵衛は、いまでも通用する先進的といえる経営哲学の持ち主であった。持ち船の難破は一隻もなかったほどの安全運航。保険がないころ、船が沈めば船も積み荷も人も失い大きな損失となるが、無事な航海1回で船1隻建造分の利益をうむことも。また、仕入商品、たとえば昆布の等級をもうけ、量目を明らかにするなど、きびしい品質管理の山高印ブランド。これによって、高田屋の商品は信用をかちとり、検品なしで全国に流通したのだ。
嘉兵衛の死から6年あと、二代目のころにロシア船との密貿易などの疑いで幕府から不動産をのぞく動産すべてが没収となる欠所処分をうけた。たとえば、千石船450隻。このとき、箱舘の高田屋か、高田屋の箱舘か、といわれた箱舘はいっぺんに不景気となり火の消えたようになったという。明治のはじめ、四代目は新政府にうったえ高田屋の無罪を勝ちとったが、没収された財産はもどらなかった。
嘉兵衛は、もうけを船と商品の再投資にまわすとともに社会に還元している。函館山の植林、シジミの養殖、失対事業、凶作にそなえた米の備蓄など、良く儲け良く散ずるの風があった。
商売さかんとなっても綿服、番茶しか飲まず、一汁一菜の粗衣粗食を生涯とおした。
●道案内
高田屋嘉兵衛銅像 市電 「宝来町」下車、徒歩2分(地図へ)
尚、七代目高田嘉七さんは2011年に亡くなられ、北方歴史資料館は閉鎖となった