【オホーツクの漁師】 唐牛健太郎 ライカ北紀行 —函館— 第26回

西野 鷹志 【Profile】

坊主頭のまま大学に入った1960年。

安保闘争のまっただ中であった。大学構内は安保反対の立てカンバンが林立、連日デモ隊が国会をとりまき、“岸を倒せ!”。

このときの全学連(全日本学生自治会総連合)委員長は、函館生まれで“石原裕次郎より格好いい”といわれた唐牛健太郎(かろうじ けんたろう)であった。シュプレヒコールうずまくなかに僕もいたが、デモのあと銀座に流れ、バッキー白片(しらかた)とアロハ・ハワイアンズに聴きほれていたこともあった。

時はうつり、函館・大門の酒場で赤銅色に日焼けした唐牛と2、3度カウンターに連なったことがある。

70年代、彼はオホーツクの紋別で漁師をやっていた。芸者、郵便局員と女手一つで育ててくれた母・きよがひとり住む函館にいっとき里帰りし、高校時代の友人と会っていたのだ。「安保の遺産で食っているサ」と、かつての同志にもらした男は、昔を語らず、しずかに酒をのむその姿に人間の器を感じた。

雨上がりに撮影した、函館山の麓にある唐牛健太郎の墓(作・秋山祐徳太子)。オホーツクの波がモチーフで、母きよの名前も彫られている(2010)
雨上がりに撮影した、函館山の麓にある唐牛健太郎の墓(作・秋山祐徳太子)。オホーツクの波がモチーフで、母きよの名前も彫られている(2010)

1984年、直腸がんで、真喜子夫人にみとられながら穏やかに47歳の生涯を終えた。漁師仲間は大漁旗で棺をおおったという。

安保闘争から60年、唐牛が逝って35年。

好きな海を一望できる函館山のふもと。

2019年の夏、お墓にお参りしたら、2年まえに亡くなった真喜子夫人の名前が新たに彫られていた。唐牛一家ここに眠る。冷たい雨にぬれたお花とカップ酒が供えられていた。いつもお花が絶えない。夕日がしずむなか、イカ釣り船が漁場へ急ぐ。

唐牛と親しく全学連同志で後に東大教授となった西部邁(すすむ)が、函館での講演会のあとの打ち上げでぽつりと一言もらした。「あいつだけには勝てなかった……」と。唐牛が世を去って8年後のことであった。その西部も多摩川で入水して1年あまりとなる。

西部邁 函館(1992)
西部邁(函館1992)

●道案内
唐牛健太郎の墓 市電「函館どつく前」下車、徒歩20分。外国人墓地ちかく正法寺墓地内

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    1941年東京生まれ。エッセイスト・写真家。函館中部高校を経て慶応義塾大学経済学部卒。30代半ばで郷里に戻り、函館山ロープウェイを経営する傍ら、日本初のコミュニティFM放送「FMいるか」を創設。北海道教育委員や女子高の理事長、函館のタウン誌「街」の発行人もつとめるなどその活躍は多彩。愛用のカメラ、ライカを肩に北の港街をモノクロで撮り続けて30年。『ウイスキー・ボンボン』『風のcafé 函館の時間』など多くの著書がある。

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