【ペリー艦隊の弔砲】外国人墓地 ライカ北紀行 —函館— 第25回
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笛と太鼓の音が、箱館の街なかにひびきわたった。165年前の嘉永(かえい)7年、1854年のことであった。ペリーが箱館に来航したとき、水兵、J・G・ウォルフ(50)とG・W・レミック(19)の2人が、この異郷の地で病死した。
従軍牧師・ジョーンズ師を先頭に葬列が組まれ、剣をおびた士官が左右をあゆむ。それにつき従い水兵たちが横笛を吹きドラムをたたき、黒い布でおおわれた棺をかつぎ、おごそかに行進。土地の群衆も頭を垂れてつき添う。このときひびいたのが、ヘンデルの葬送行進曲であった。
葬られたのは、函館山のふもとの高台。これが外国人プロテスタント墓地の始まりで、アメリカ、イギリス、ドイツ、イタリア、ポルトガルなど、さまざまな国籍の人の墓碑が41基、ここにねむっている。そのまわりにロシア正教、カソリック、中国人の墓地が後に造られた。
ペリーは箱館を去るにあたり、遠い異郷の地に埋もれた2人の水兵を弔うため、追悼文を刻んだ記念碑の設置を松前藩に依頼している。その来航から100年後、1954年、ペリー来航記念100年祭にあたり、水兵がねむる墓碑の傍らで記念碑の除幕式がおこなわれた。
外つ国の海辺に眠り
憩へかし 舟人よ憩へかし
汝が試煉(こころみ)は果てたり
汝が友の舟人等はこの記念(かたみ)を
ここに残せり
涙そそぐ人もありなん
幾年か雨風をしのぎ
祖国のために生命(いのち)献げし人に(土谷喬雄 玉城肇 訳)
ペリー艦隊は、水兵とのとわの別れに、半旗をかかげ艦上に整列し、弔砲(ちょうほう)を放ったにちがいない。墓地そばのカフェテリア「モーリエ」のご主人によれば、先祖の墓を探しもとめて、外国人がたまに訪れるという。
●道案内
外国人墓地 市電「函館どつく前」下車、徒歩15分(地図へ)