【函館へ行って死ぬ】ライカ北紀行 —函館— 第9回

「明治40611日 石川一(はじめ)、函館区弥生尋常小学校代用教員拝命 月俸十二圓」

明治15年の開校当初から綴られ、古びた『彌生小学校沿革誌」。その一ページに記された、石川啄木の足跡である。いまも校長室の耐火金庫に大切に保管されている。

『一握の砂』で「東海の小島の磯の白砂にわれ泣きぬれて蟹とたはむる」と詠んだ大森浜 (2018)
『一握の砂』で「東海の小島の磯の白砂にわれ泣きぬれて蟹とたはむる」と詠んだ大森浜 (2018)

天才詩人と名が出始めた啄木をあたたかく迎えいれた、函館の文学仲間のツテで、薄給の弥生小学校代用教員となる。が、「烈しい山背の風で一本のマッチから起った火を煽りに煽って……雲も狂ひ風も狂ひ火も狂ひ人も狂ひ巡査も狂ひ犬も狂ひ」と函館名物の大火で、勤め先の「学校も新聞社も皆焼けぬ……予が家も危かりしが漸くにしてまぬかれたり」。妻子、母を呼びよせ新生活を築こうとの矢先、わずか3カ月の教員で、家族をのこし札幌に職をもとめてむかった。

啄木の妻・節子が通ったと言われる質屋。現在は、茶房ひし伊
啄木の妻・節子が通ったと言われる質屋。現在は、茶房ひし伊

北海道を漂うこと1年ほど、そのあと上京し歌集『一握の砂』で名声を得たが、困窮のうちに27歳で世を去った。「おれは死ぬ時は函館へ行って死ぬ」と言いのこして、現在は立待岬にねむる。

●道案内

  • 石川啄木の墓碑 市電・谷地頭下車 徒歩13分
  • 大森浜(啄木小公園) バス・啄木小公園前 徒歩1分 
  • 茶房ひし伊 市電・宝来町下車 徒歩2分

地図

啄木一族の墓碑。函館で最期をむかえたいと、啄木一家を物心両面でささえた親友の宮崎郁雨に書いた
啄木一族の墓碑。函館で最期をむかえたいと、啄木一家を物心両面でささえた親友の宮崎郁雨に書いた

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