ゾルゲと司馬遼太郎:伝説のスパイの足跡を訪ねて(6・最終回)
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「ゾルゲの書を読むと当時の日本情勢が分かる」
情報士官(インテリジェンス・オフィサー)は黙して語らず——。だが、リヒャルト・ゾルゲは、あまりにも多くを書き残していた。1941年10月に東京・麻布の自宅で逮捕され、巣鴨の東京拘置所の独房に収監されると、つかれたようにタイプを打ち続けたという。こうして「獄中手記」が紡がれていった。諜報活動の実態を明らかにし、自らがたどった数奇な人生も書きつづっている。ドイツの有力紙「フランクフルター・ツァイトゥング」の東京特派員でもあった男は、書かずにはいられなかったのだろう。
筆者はゾルゲが書いたものを読み続けているうち、いつしかゾルゲの視点で当時、日本を取り巻いていた複雑怪奇な国際情勢を俯瞰(ふかん)するようになった。濃い霧が晴れるように、国際政局が見渡せるようになっていった。そして、全く同じことを感じていた大作家がいたことに驚いた。司馬遼太郎である。
「私はゾルゲのファンなんです。ゾルゲのエッセーを読んでると、昭和10年(1935年)前後の日本の情勢が非常によくわかります。こんなすばらしい頭脳というのはあるのかしらと思わざるをえない。彼の日本観察を見てもそうなんです」(『対談集 日本人の顔』朝日文庫)
当時の日本と国際情勢を見てみよう。ゾルゲが来日した1933年、ドイツにヒトラー政権が誕生、満州事変を引き起こした日本は国際連盟を脱退し、国際的な孤立を深めていった。36年には陸軍の青年将校らによる軍事クーデター未遂の「二・二六事件」。天敵とまで言われたヒトラーのドイツとスターリンのソ連が39年8月に不可侵条約を結ぶ。この「悪魔の盟約」は、ドイツとの防共軍事同盟を進めていた平沼騏一郎首相を直撃し、「欧州情勢は複雑怪奇なり」として内閣を投げ出した。翌月、欧州で第2次世界大戦が始まった。41年4月に日ソ中立条約を結んだのだが、その2カ月後にはヒトラーのドイツが「バルバロッサ作戦」を発動してソ連に侵攻を開始した。果たしてドイツの同盟国となった日本は、ソ連と戦端を開くのか——。それを探ることが、世紀のスパイとうたわれたゾルゲにとって最大にして最後の使命となった。
曇りのない目で日本を冷徹に分析したゾルゲ
司馬遼太郎は前掲書でこう続けている。
「当時の日本人の専門家たちは、いっさい自分自身の運命を予言できなかった。(ゾルゲが*)外国人だから(日本はソ連に刃向っていかないだろうと*)予言できたのではなくて、ゾルゲは集められるデータは少なかったけれども、乏しいデータから当時の日本の情勢を正しく分析する澄み透った目をもっていた。言い換えれば、既成概念のない目です。日本人のほうは既成概念があるから、物が見えにくくなるんですね」 (*は筆者が補記した。以下の引用部も同じ)
皮肉な話だが、ゾルゲは社会主義の祖国ソ連を率いるスターリンの思い込みとも闘わなければならなかった。
「満州事変以後の日本軍部を見て、ソ連は日本が対ソ攻撃を計画しているという深い猜疑(さいぎ)心を持つようになった。私がいくら反対の説を立ててもモスクワ当局はどうも十分にはわかってくれなかった」
東京発のゾルゲ特電はスターリンにも届けられていたもようだが、スターリンはゾルゲの警告に耳を傾けようとはしなかった。
「日本軍部の勢力が引き続き増大するなら、その鉾先(ほこさき)はソ連に向けられるとモスクワが考えたのは当然だった」と書いている。(「ゾルゲ事件獄中手記」岩波現代文庫)
「関東軍特種演習」は対ソ戦の兆しか
独ソ戦が始まった翌月(1941年7月)に、満州の山野では精強を誇る関東軍がソ満国境近くに兵力70万人を展開し、「関東軍特種演習」を敢行した。独ソ戦がドイツに有利に進展すれば、日本が参戦するのではないか——。現に日本陸軍の対ソ強硬派にはそう主張する一派も存在した。だが、ノモンハン事件でソ連軍に手痛い打撃を被った日本陸軍は開戦に踏み切ることはなかったのである。
当時のソ連は、日独両国に挟み撃ちされるのを恐れていた。こうした中、ゾルゲはこの大演習について「動員が大規模であり、私の諜報グループにとっては数カ月にわたって極めて重要な問題だった」と書いている。そして、「初めは心配したが、大演習は主にソ連を狙ったものではないことが、次第に分かってきた。これによって、日本が翌年(42年)春までソ連を攻撃することはないと断定できた」と記している。
ゾルゲは、当時の日本軍部がソ連の脅威を強調し仮想敵国としてきたのは、「恐るべき怪物ソ連に対抗するのだと、膨大な予算要求を正当化するため」と分析。そして、「日本の本当の目標は北方でなく、中国と南方なのだ」と的確に結論付けた。
ソ満国境で繰り広げられた大演習は、ゾルゲの死後、ソ連が中立条約を破って対日開戦に踏み切る口実に使われたのだった。「モスクワにドイツ軍が迫っている時に、日本がソ満国境で大兵力を集結させたので、ソ連は応援部隊の首都への移送が妨げられた。これは日ソ中立条約違反(利敵行為)であり、この時点で同条約の効力は事実上消滅していた」
ソ連側はこう主張し、45年8月の対日参戦を正当化する理由の一つとしたのである。
独ソの狭間で育ったゾルゲ、その気高き理想
ゾルゲが卓越した分析力を持つ人物となった理由について、司馬遼太郎はこう言っている。
「非常に複雑な民族環境(父がドイツ人、母がロシア人*)に生まれていることと無縁ではない。ゾルゲが(ソ連を自分の理想の母国とする*)強烈な理想を持っていたこととも無縁ではない。この理想をもたなければゾルゲは成立しないわけで、複雑な民族環境と高い理想が非常に巨大な魂を生んだ」
そして、日本ではゾルゲが評価されていないことについて、司馬は「ゾルゲをスパイだと、日本の場合は本当に思ったのに違いない。(多くの刑死、獄死者を出す*)非常に凄惨(せいさん)な事件になってしまって、日本人というのは、あれを見てもどうもだめだなという感じがする」と残念がっていた。
独学で日本を研究してから来日したエキスパートだったゾルゲ本人は、次のように述べている。
「私の日本研究は、私の諜報活動に大きく貢献したが、同時にそれは私の非合法活動をかくす偽装として、絶対に必要なものであった。もし私が日本の研究をしていなかったら、ドイツ大使館やドイツ人記者の間で占めていたような確固たる地位はとうてい獲得することができなかっただろう。ドイツ大使館が機密事項について、私と討議したり、私の意見を求めたりもしなかっただろう。一番役に立ったのは、日本について知識を得ていたことであった」
ソ連の将来を見誤ったゾルゲ
連載の終わりに、ゾルゲが一つ “予言”を間違えた点を指摘しておきたい。獄中手記で「ソビエト連邦は帝政ロシアと違って、国家構成の点から見ても、また歴史的発展の経過から見ても、侵略国家ではない。また近い将来に侵略国家になる考えも持っていなければ、その能力もない。ソ連はただ自らを守ることに関心をもっているだけである」と述べている。だから、「日本がソ連の攻撃を恐れなければならない理由は一つもない」としている。
ゾルゲの死後のことだが、ソ連による終戦直前の対日参戦や、ハンガリー、チェコ、アフガニスタンなどへの進攻を見て、ゾルゲがあまりにもソ連を純粋に、理想的に描いていたと言わざるを得ない。平和国家と思い描いたソ連が他国を軍事力で踏みにじったことを、誰よりも嘆いたのは当のゾルゲだったろう。
風化する「ゾルゲ」
日本での諜報活動を1941年秋まで8年間続け、石井花子ら日本女性も愛しながら、外国人が見た昭和・開戦前夜までの貴重な記録を残したゾルゲ。あの時代、日本には彼以上に国際情勢の分析ができた人はいなかったとさえ言われた。しかし、今日の日本では「ゾルゲ」はすっかり風化し、今回の連載で歩いたゆかりの地も忘れ去られようとしている。
多磨霊園で、花子と共に眠る「ソ連邦英雄」の墓には、ロシア関係者からの花が絶えない。「ゾルゲ」への関心が日ロ間で大きく違うことを痛感し、広がる一方の差が少しでも狭まれば、と思っている。
バナー写真:モスクワのゾルゲ通りに建つリヒャルト・ゾルゲ像(時事)