ゾルゲが恋人と眠る多磨霊園:伝説のスパイの足跡を訪ねて(5)
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花子、執念の遺骸探し
東京都府中市と小金井市にまたがり、日本初の公園墓地として知られる都立多磨霊園。東京ドーム27個分(128万平方メートル)と広大な墓地は緑が多い。春には並木の桜が見事に咲き誇り、墓参者たちを和ませていた。静かな園内には外人墓地の一画もあり、多くの霊が国籍や宗教を超えて共に眠っている。いくつもの運命のいたずらが重なり、巣鴨で処刑されたゾルゲと尾崎秀実はこの霊園で、愛する人と共に眠っている。
花子がゾルゲの死を知ったのは、終戦間もない1945年10月。戦前に検挙されていた思想犯が釈放され、ゾルゲ事件は各新聞で報道された。処刑後のことには触れていなかったため、彼の遺体はゆかりの国、ドイツかソ連に運ばれたと思ったという。最愛の人ゾルゲを失い、孤独に耐えて生きていこうと覚悟した。それから3年、花子は書店でゾルゲ事件を伝える小冊子を手に取った。そこには「ゾルゲの死体は引き取り手がなく、雑司ヶ谷の共同墓地に土葬された」と記されていた。早速、雑司ヶ谷に行ってみたが、墓地は荒れ果て、どこに埋葬されているかさえ分からなかった。
巣鴨から小菅に移った東京拘置所にも何度も足を運び、亡き骸の行方を尋ね続けた。だが、係官からは煙たがられ、「今は国際情勢が微妙だから、ゾルゲの墓標も立ててはいけない」と言われたという。当時の日本はまだ占領下にあり、連合国軍総司令部(GHQ)はソ連のスパイの存在に神経をとがらせていたのだろう。
処刑から20年、突然の名誉回復
ゾルゲが亡くなって5年がたった49年11月、懸命に愛する人の遺体を探す姿に同情した共同墓地の管理人が手を差し伸べてくれた。「先日、共同墓地に埋葬された人たちを合葬した際に、骨格が大きい外人らしいものが見つかった。あなたが引き取りに来ると思って、合葬せずに別にしておきました」。間一髪で間に合った。合葬されてしまえば、ゾルゲの遺体を特定する手段がなくなってしまう。掘り起こされた白骨が第1次世界大戦中に負傷した足の傷と一致し、処刑された時にかけていたロイドメガネも出てきたことで、ゾルゲ本人の遺骸と確認された。花子は著書の原稿料で、当時の住まいに近かった多磨霊園に墓を買い、翌50年11月、ゾルゲを納めたのだった。(花子の著書「人間ゾルゲ」から)
東京オリンピックがあと1カ月に迫った64年9月、各紙がモスクワ電として「ゾルゲ再評価」を伝え始めた。ゾルゲの功績をかたくなに認めようとしなかったスターリンが死去し、スターリン批判に踏み切ったフルシチョフ書記長は、その政権末期になってようやく、ゾルゲの名誉回復に向けて動き出した。突然のことで戸惑う花子のもとに、ソ連の報道機関が続々と取材に訪れた。五輪取材で来日した東独の特派員らもゾルゲの話を聞きにやってきた。同11月、ソ連最高会議幹部会がゾルゲに「ソ連邦英雄」の称号を贈った。これによって諜報団の存在を黙殺してきたソ連のゾルゲ評価が180度転換した。
日本でも揺れるゾルゲ評価
日本国内でもゾルゲの評価は揺れ続けた。戦後間もなくは、軍国主義の抑圧から一気に解放されたこともあって、左翼陣営や若い学生を中心に、社会主義の祖国ソ連を救ったゾルゲをあがめる空気があふれていた。尾崎の著書『愛情はふる星のごとく』がそうしたゾルゲ評価を決定的なものにした。ゾルゲ諜報団は祖国を売った「売国奴」ではなく、戦争に突き進む軍閥の前に立ちはだかった「愛国者」にして「平和主義者」だと受け止められた。憎むべきスパイ像は崩れていった。
第1、2次近衛内閣の内閣書記官長(現在の官房長官)、司法大臣で、尾崎と同じ朝日新聞記者だった風見章は、この事件を「卑劣なスパイ事件として片づけてしまうのは間違いであることは、公正な批判家ならばだれでも認めるところであろう。尾崎君がマルキシズムのため一身を捧げようとしていたのは気が付かなかったが、彼が内閣嘱託であったことを利用して国家に損害をかけたことはなかったことは裁判で明らかにされている」と書いている(「愛情はふる星のごとく」のあとがき)。
一審で死刑判決を言い渡した高田正裁判長は、尾崎の東大生時代の知人で、死刑確定後に獄中の尾崎と面会し、食事をしながら歓談している。後に、「尾崎、ゾルゲ両氏とも信ずるところに殉ぜんとする気迫には、頭が下がる思いだった。情において、罰するに忍びざるものがあった」と風見氏に述懐していた。戦時中の裁判とはいえ、裁判長の良心が大きく揺れた死刑判決だった。2人を死刑にした一連の治安法規は終戦後すぐに廃止されている。
その後、東西冷戦が本格化するにつれ、ゾルゲは日本でも次第に忘れられた存在になっていく。ソ連のゾルゲ再評価も、日本ではあまり注目されなかった。そして今、事件を全く知らない世代が増えている。
同じ霊園で眠る盟友
ゾルゲの墓は、中央の黒光りする墓碑にロシア語で「ソ連邦英雄 リヒャルト・ゾルゲ」、その下に「妻 石井花子」と彫られている。この墓を1人で守り通した花子の強い思いを感じさせた。その両側に石碑があり、一方には「戦争に反対し世界平和の為に生命を捧げた勇士ここに眠る」と記されている。もう一方には「ゾルゲとその同志たち」の名や命日が刻まれている。その11人中、刑死2人、獄死5人、釈放2日後死亡1人で、「世紀のスパイ事件」がいかに多くの犠牲者を出し、過酷なものであったかを訴えかけていた。
ソ連の崩壊後もロシアの駐日大使がここに墓参する慣例になっている。ロシア関係者を中心に参拝者は絶えず、いつも花が供えられている。ここから歩いて数分の所に尾崎の墓がある。彼は遺書で、「墓所を買うこと無用」としているが、「将来平和な時期が来て、(ひとり娘が)一本立ちできて、お母さんと一緒にお父さんのお墓を作るのなら、喜んで入る」と添えてあったので、戦後に墓が建てられた。花子はこのことを全く知らずに、偶然にも同じ霊園にゾルゲの墓を作った。
筆者が訪れた時も、ゾルゲの墓には大きな花かごが供えられていた。ゾルゲと尾崎の墓の中間にある桜並木が満開を迎えていた。盟友の2人は花見を楽しんでいるのだろうか、死してなお日ロ両国の友好が思うように進まない現状を憂えているのだろうか――。
現場へのルート
最寄りは西武多摩川線「多磨」駅
多くの著名人が眠る
多磨霊園(東京都府中市多磨町4丁目)へは、西武多摩川線多磨駅から徒歩5分程度。あるいはJR中央線武蔵小金井駅、京王線府中駅、同線多磨霊園駅からバスを利用することもできる。
旧東京市内の人口増加による墓地不足を解消するため、郊外での霊園開発が必要となり、1923年に日本初の公園墓地として開園した。当初は利用者が少なかったが、日露戦争の連合艦隊司令長官の東郷平八郎が1934年に埋葬されたことをきっかけに認知度が上がった。与謝野晶子、岡本太郎ら数多くの著名人の墓もある。
バス路線が霊園を縦断して通るほど敷地は広大で、園内の主要な道路沿いには多くの桜の木が植えられている。春には、墓参者のみならず、花見客でにぎわう桜の名所でもある。正面入り口の近くに土葬も認められた外国人墓地もあるが、ゾルゲの墓は入り口から徒歩15分ほどの一般区画にある。尾崎はゾルゲの墓から3分ほどのところで、夫人と共に眠っている。
バナー写真:「ソ連邦英雄 ゾルゲ」の墓