『千住の大はし』:浮世写真家 喜千也の「名所江戸百景」第118回
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奥に描かれた山は、江戸の復興を支えた土地の象徴
千住大橋は、隅田川に架けられた最初の橋だ。江戸入りして間もない徳川家康が建造を命じ、1594(文禄3)年に完成。現在の荒川区南千住と足立区千住橋戸町を結び、長さは66間(約120メートル)もあった。当初は、単に「大橋」と呼ばれていたという。
それまで奥州(東北)へ向かう際は、浅草の北にある橋場(現・台東区橋場)で渡し舟を利用したが、江戸の町づくりには大量の物資を調達する必要がある。東北や北関東方面の物流ルートを確保するため、橋を架けることが急務となったようだ。しかしながら、この時代は、まだ戦乱の世。家康は江戸への敵の侵入を恐れ、他の橋を架けることを許さず、しばらくは隅田川唯一の橋であった。
江戸時代初期に五街道の整備が進むと、千住大橋は奥州・日光街道に組み込まれ、北岸に「千住宿」が設けられる。陸路での往来に加え、荒川水運の物資も集積し、宿場町は大いににぎわい、後に橋の南側まで拡大していく。
「千住の大橋」と呼ばれるようになったのは、家康のひ孫、4代家綱治世の1659(万治2)年に、隅田川2番目の橋「両国橋」が完成してからのこと。こちらも正式な名前がなく、当初は同様に「大橋」と呼ばれたらしい。紛らわしいため、次第に庶民の間で「千住の大橋」「両国橋」と呼び分けるようになったという。
広重は、隅田川の南岸から北西に向かい、千住大橋を俯瞰(ふかん)で描いた。旅人や駕籠(かご)、荷を積んだ馬などが行き交い、宿場町の活気が伝わってくる。ゆったりとした流れが続く上流には、大きな帆を張った荷船や筏(いかだ)が浮かぶ。橋付近の川沿いには木材が浮かび、対岸にも大量に積み上げられている。黄色いかやぶき屋根の小屋や蔵は、材木商のものであろう。
奥に見える雄大な山々は、方角から秩父山地のはずだが、広重は日光街道の一番宿を象徴するために、日光連山を描いたという説もある。中央が高く、左右に少し低い頂が並ぶのは、日光連山特有の描き方のためだ。
しかし、この絵が摺(す)られたのは1856(安政3)年2月。『名所江戸百景』の最初の作品の一つで、このシリーズは前年10月の安政江戸地震から復興する江戸の姿を描くのがテーマ。当時、江戸で建築に使われた木材は、埼玉の秩父産や隣接する飯能地域の「西川材」が多く、いずれも荒川を経由して運び込まれていた。武甲山を中心に据えた秩父山地、その周辺の木材が集まる千住宿を、復興の象徴として描いたと考える方が自然だろう。
現在の千住大橋南詰には、下流にある隅田川テラスのような開けた場所が見当たらない。2018年1月、高さ5メートルほどのコンクリート塀越しに、脚立と一脚を使ってカメラを向けたが、堤防の補強工事中で巨大なクレーンや作業船に撮影を阻まれた。それから1年待ち、ようやく撮影できた思い出深い作品である。
●関連情報
千住大橋
千住の地名の由来には諸説あるが、地元の漁師が1327(嘉暦2)年、現在の隅田川に投げた網で、千手観音を引き上げたというのが有名だ。その観音像は北千住駅近くの勝専寺(足立区千住2丁目)、通称・赤門寺に今も安置されている。
観音様のご加護があったのか、千住大橋は江戸時代を通じて1度も流出していない。橋杭には、伊達政宗が献上した槙(マキ)の木を使用。腐敗に強く、改修や架け替えの度に再利用され、約300年も千住大橋を支えたと伝わる。同じ隅田川に架かる新大橋は、約100年後に建造されたにもかかわらず、崩落や流出、焼失を20回も繰り返したので、いかに頑丈だったかうかがい知れる。
そんな名橋も1885(明治18)年、台風による洪水で流出してしまう。翌年に新しい木造橋が建造され、関東大震災復興事業の一環で1927(昭和2)年、アーチ式の鉄橋に生まれ変わった。
千住といえば、松尾芭蕉『おくのほそ道』の「矢立ての初め」(旅の最初の句)で知られる。1689(元禄2)年に深川をたった芭蕉が、見送りの門人らとの別れ際、千住大橋付近で「行く春や鳥啼(な)き魚の目は泪(なみだ)」と詠んだ。今でも旧日光街道沿いを歩くと、芭蕉の像や句碑を見ることができる。
幕末には、東海道・品川宿に次ぐにぎわいの宿場町へと成長していたが、広重にとっては縁が薄かったのか、あまり題材にしていない。今回の絵が、千住宿を描いた唯一の大判(現在のB4相当)錦絵のようだ。
明治になると宿駅制度が廃止となり、千住の旅籠(はたご)は減少したが、交通の要所として町は発展を続けた。今でも「北千住」駅には、JR常磐線や東京メトロ日比谷線と千代田線、東武伊勢崎線、つくばエクスプレスが乗り入れ、都心部とベッドタウンの接続点となっている。真っすぐ続く旧街道沿いは商店街が連なっており、特に「千住ほんちょう商店街」は休日になると多くの人が訪れ、宿場町のにぎわいを感じさせる。