『馬喰町初音の馬場』:浮世写真家 喜千也の「名所江戸百景」第117回

歴史

歌川広重『名所江戸百景』目録では第6景となる「馬喰町 初音の馬場(ばくろうちょう はつねのばば)」。問屋街近くにあった江戸で最も古い馬場を描いた、平和な春を象徴する1枚である。

軍事施設に反物がたなびく天下泰平の図

画題の通り、この絵が描かれたのは現在の中央区日本橋馬喰町(ばくろちょう)。南隣の横山町と併せて「馬喰横山」と呼ばれ、衣類や繊維を中心とする問屋街として名が通っているので、反物がたなびく情景には合点がいくだろう。ただ「初音の馬場」の方は文字通り、初めて聞いたという人が少なくないはずだ。

初音の馬場は、徳川家が初めて江戸に造営した馬場である。豊臣秀吉による小田原征伐の後、徳川家康は江戸入りし、城郭の整備を進め、堀の周囲を埋め立てて家臣を住まわせた。いつ戦が起きてもおかしくない時代だけに、城下の日本橋付近に軍事教練施設の馬場も設置。その傍らには初音稲荷があったため、初音の馬場と呼ばれるようになったという。

町名は、馬労(ばろう)頭の高木源兵衛と富田半七が管理を任されたことに由来する。牛馬に精通した馬労は「博労(ばくろう)」とも呼ばれたので、当初は博労町になり、正保年間(1645-1648)に馬喰町の字に改められた。

関ヶ原の戦いでは、徳川軍団が江戸を出発する際に「馬揃(ぞろ)え」を行った由緒ある馬場だ。3代家光の時代の江戸図を見ても、馬場はここのみが記載されている。高田馬場を代表とする他の馬場が造営されたのは、明暦の大火(1657年)による江戸の大拡張後。それらも天下泰平(たいへい)の世が続くことで、軍事的役割は次第に薄れていき、街道沿いの町屋にある初音の馬場は、幕末にはただの空き地と化していたようだ。

明暦の大火前の武州豊島郡江戸庄図(1633年 東京都公文書館蔵)の北を上にして江戸城大手門(左下)から浅草御門北(右上)を切り抜いた。初音の馬場を赤い線で囲い、奥州・日光街道を紫の点線で示した。開府当初、武家地だったが、街道整備が進むと馬場の南側は町屋、北側は寺社地となった
明暦の大火前の武州豊島郡江戸庄図(1633年 東京都公文書館蔵)の北を上にして江戸城大手門(左下)から浅草御門北(右上)を切り抜いた。初音の馬場を赤い線で囲い、奥州・日光街道を紫の点線で示した。開府当初、武家地だったが、街道整備が進むと馬場の南側は町屋、北側は寺社地となった

広重は、初音の馬場の南東に立ち、西方向を描いている。最初に目に飛び込んでくるのが、「張り手」という道具を使って横に広げられた4反の布地。神田紺屋町の染物職人が干していると解説する人が多いが、全く柄がないので、筆者は木綿やつむぎを仕立てる前に、のりやカビ菌を落とすために「湯通し」したものだと推測する。繊維問屋が軒を並べた、この辺りならではといった光景であるが、形骸化した軍事施設を背景とすることで、江戸の平和な日常をより感じさせる秀逸な構図だ。両側のしなやかな柳の木も芽吹き、穏やかな春を感じさせる。

正面には火の見櫓(やぐら)が象徴的に登場し、はしご部分が板で覆われていないので町火消しのものだと一目で分かる。火の見櫓が馬喰町の名物だったことは、かつて定火消同心を務めた広重にも誇らしく、詳細に描いたのかもしれない。

現在の馬喰町はビルばかり。火の見櫓はもちろん、柳の木もなく、馬場を想起させるものは広い道路や学校のグラウンドくらいだ。かつて馬場があった付近で、ふと見上げると縦長の広告塔が目に入ったので、火の見櫓に見立ててシャッターを切った。

関連情報

初音稲荷、初音森神社

ウグイスやホトトギス、スズムシなど、季節の到来を知らせる鳥や虫が最初に鳴くことを「初音」という。日本橋馬喰町から東日本橋にかけての一帯には、かつてウグイスの鳴き声が響く「初音の森」が広がっており、鎌倉時代末の1330年頃に森の鎮守として祠(ほこら)がつくられたという。16世紀には住民が増えて「初音の里」と呼ばれるようになり、江戸城を築いた太田道灌が、初音稲荷の社殿を造営したと伝わっている。

家康の江戸入城後は、初音の馬場や浅草見附(浅草御門)の建設などで社地は大幅に縮小するが、しばらくは同地にとどまっていた。関ヶ原の戦いでの馬揃えの際、家康が愛馬・三日月に稲荷社の井戸の水を飲ませ、無事凱旋(がいせん)できたことから「三日月の井戸」と命名したという逸話も残る。しかし明暦の大火後の江戸大改造で、初音稲荷があった寺社地に関東代官頭屋敷(後の郡代屋敷)の建設が決まり、隅田川の対岸へと遷座。その後は、初音の馬場の名だけが幕末まで城下に残り、今回の絵のタイトルとなったのだ。

初音稲荷の氏子衆は当然、馬喰町や横山町などに残った。そのため、初詣には両国橋を渡って参拝し、祭礼の日にはみこしが隅田川を越えて氏子地域を渡御したという。初音稲荷は「初音森神社」として今も墨田区千歳に残るが、戦後の1948(昭和23)年、旧社地に近い東日本橋に初音森神社の儀式殿が設けられた。氏子にとっては300年近く前に途切れた、地元での参拝が復活したことになる。

今ではビルの2階にある現代的な社だが、昔は日本橋にウグイスの鳴く森が広がっていたこと、近くに家康が関ケ原に出陣した馬場があったことなどを覚えておくと、趣深く感じられるはずだ。

『江戸名所図会 1巻』(1834年頃刊 国会図書館蔵)「馬喰町馬場」では、初音の馬場の全体像が分かる。広重の絵は右ページの馬場沿いから左下方向を向いて描いている。初音稲荷があったのは左ページ中央の郡代屋敷の長屋塀付近で、現在の初音森神社・儀式殿は右ページの右端あたりだったであろう
『江戸名所図会 1巻』(1834年頃刊 国会図書館蔵)「馬喰町馬場」では、初音の馬場の全体像が分かる。広重の絵は右ページの馬場沿いから左下方向を向いて描いている。初音稲荷があったのは左ページ中央の郡代屋敷の長屋塀付近で、現在の初音森神社・儀式殿は右ページの右端あたりだったであろう

東日本橋の「初音森ビル」2階に、初音森神社の儀式殿(右の戸)と祠(左奥)がある
東日本橋の「初音森ビル」2階に、初音森神社の儀式殿(右の戸)と祠(左奥)がある

浮世写真家 喜千也「名所江戸百景」:広重目線で眺めた東京の今
「名所江戸百景」は、ゴッホやモネなどに影響を与たことで知られる浮世絵師・歌川広重(うたがわ・ひろしげ)の傑作シリーズ。 安政3年(1856年)から5年にかけて、最晩年の広重が四季折々の江戸の風景を描いた。大胆な構図、高所からの見下ろしたような鳥瞰(ちょうかん)、鮮やかな色彩などを用いて生み出された独創的な絵は、世界的に高い評価を得ている。その名所の数々を、浮世絵と同じ場所、同じ季節、同じアングルで、現代の東京として切り取ろうと試みているのが、浮世写真家を名乗る喜千也氏。この連載では、彼のアート作品と古地図の知識、江戸雑学によって、東京と江戸の名所を巡って行く。

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