『よし原日本堤』:浮世写真家 喜千也の「名所江戸百景」第116回

歴史

歌川広重『名所江戸百景』目録では第100景となる「よし原 日本堤(よしわら にほんづつみ)」。幕府公認の遊郭・新吉原へ通う遊客の往来を描いた冬の1枚である。

茶屋が立ち並び、人があふれかえる堤防上の道

画題の「よし原」は、歌舞伎や時代小説、映画でおなじみの「吉原」のこと。近年は人気アニメでも取り上げられ、海外での認知度も高まっている江戸幕府公認の遊郭だ。今でも奥浅草と呼ばれる台東区千束4丁目に、当時の町割りがそのまま残っている。

この辺りは隅田川に程近く、江戸時代に入るまで沼沢地が広がっていた。徳川2代将軍・秀忠は1620(元和6)年、浅草地域を水害から守るために、浅草寺北東の隅田川沿いの待乳山(まつちやま)から、奥州・日光街道の箕輪(現・三ノ輪)にかけての約1.8キロに土手を築く。全国の諸大名が工事に参加し、わずか60日で完成させたことから「日本堤」と名付けられたと伝わっている。土手に沿って山谷掘も造ったことで、一帯の水はけが良くなり、「浅草田んぼ」と呼ばれる田園地帯に生まれ変わった。

日本提は誕生から約40年後、洪水対策とは別の役割も担い、その名は広く知られるようになる。1657年の明暦の大火後に、日本橋近く(現在の日本橋人形町付近)にあった吉原遊郭が、土手沿いに移転してきたのだ。

『安政改正御江戸大絵図』(1858年刊、国会図書館蔵)より、浅草寺(中央下)から箕輪・浄閑寺(左上)までを切り抜いた。日本堤を青の点線で示し、吉原を赤の破線で囲った
『安政改正御江戸大絵図』(1858年刊、国会図書館蔵)より、浅草寺(中央下)から箕輪・浄閑寺(左上)までを切り抜いた。日本堤を青の点線で示し、吉原を赤の破線で囲った

吉原遊郭の敷地は幅380×奥行き280メートルほどで、四方を塀と堀で囲まれていた。唯一の出入り口・大門は日本提側にあり、遊びに行く江戸っ子は必ず土手の上を往来せねばならなくなった。ほとんどの客が待乳山方面から向かい、大門は日本堤の真ん中辺りに位置するため、「通いなれたる土手八丁(900メートル弱)」などと吉原通いを自慢するやからまで現れた。

吉原の来訪者は、妓楼(ぎろう)で遊ぶ客だけではない。100軒を超える茶屋では昼から夜まで商談が交わされ、俳諧や狂歌など風流人の集いも多く、夜桜や盆燈籠といった季節イベントも人気だった。幕末には毎日5000人超が集まったというから、土手を行き交う人もひっきりなしだったであろう。

今回の絵は、冬の日本堤の夕景である。辻駕籠(つじかご)が向かう方向に吉原があるのは明白だ。つまり広重は、待乳山と吉原の間の日本提を、西に向かって描いている。空には半月が浮かび上がり、それを横切る雁(ガン)の編隊が美しい。土手上の道の両脇には、よしず張りの茶屋が立ち並び、客があふれかえっている。

中央右端に見える柳の木は、吉原への曲がり角に立つ「見返り柳」。妓楼帰りの客が、大門を抜けて日本堤に差し掛かる際、後ろ髪を引かれて振り向くことが多いことから名付けられたという。吉原への参道ともいえる「衣紋坂」と「五十間道」沿いの商家の屋根が並び、大門から先は霞に隠されている。その左上をよく見ると、立派な屋根がたくさん頭を出しており、郭内の繁栄がうかがえる。

ただ、この風景は広重による創作だ。この作品が摺(す)られたのは1857(安政4)年4月で、絵自体は前年の暮れに描かれたと考えるのが普通だが、吉原遊郭は安政江戸地震(1855年)で壊滅。生き残った妓楼の人々は、浅草寺の東にある花川戸や深川などでまだ仮宅営業をしていた時期である。刊行した頃にようやく吉原に戻り始めたので、広重は予想図でにぎわいの復活を祈念したのだろう。

日本堤は関東大震災後の都市整備で、昭和初期に取り崩された。その跡地は「土手通り」という片側2車線の道路となっており、「吉原大門」交差点には6代目の見返り柳が残っている。冬場の西の空に半月が傾くタイミングを調べると、月齢21日の午前1時頃と分かった。江戸時代なら、すでに吉原大門が閉まっていた時刻なので、やはり広重の絵は記憶を元に描いた可能性が高い。

見返り柳を右端に入れてファインダーをのぞくと、横にある24時間営業のガソリンスタンドの明かりに照らされていた。まるで半月の光で浮かび上がっているようにも見えたので、そこを目指すように遊客や辻駕籠を並べ、作品とした。

●関連情報 

吉原遊郭、吉原神社

鈴木晴信、喜多川歌麿、葛飾北斎、歌川豊国といった有名絵師は皆、吉原遊郭を題材とした作品を残している。創造意欲をかき立てる上に、吉原側も浮世絵を宣伝に使っていたのだ。広重もその例に漏れないが、名所絵の第一人者だけに、艶っぽい妓楼内の情景や遊女の美人画ではなく、吉原の日常を好んで切り取っている。

自著『絵本江戸土産』の「新吉原 其二 娼家」では、「昼夜絲竹(いとたけ、管弦の音楽)の音(こえ)たえず、三千の遊女紅の裳裾(もすそ)をひるがえして遊客をむかう。実に昌平の楽国なり」と記している。吉原のにぎわいが天下太平の証しの一つだと、広重は考えていたのであろう。

広重著の『絵本江戸土産 6編』(1855年頃刊 国会図書館蔵)では、妓楼の張見世が並ぶ風景を描いている
広重著の『絵本江戸土産 6編』(1855年頃刊 国会図書館蔵)では、妓楼の張見世が並ぶ風景を描いている

遊女が3000人とあるが、妓楼や茶屋で働く者、宴会を盛り上げる芸者衆、商店を営むものや、その家族などを合わせると5000人ほどが暮らしていた。そこに、連日同じくらいの客が訪れたというのだから、狭い郭内には1万人以上があふれかえっていたことになる。まさに平和でないとあり得ない、夜の異空間だ。

現在の千束4丁目は、吉原遊郭当時の町割りがそのまま残っており、歴史散策をする人をよく見かける。近年は人気アニメ『鬼滅の刃』で吉原遊郭が舞台となった影響からか、家族連れや若年層も目立つようになってきた。

土手通り以外からもアクセスできるようになったため、見返り柳の存在感は薄れたが、代わりに吉原神社の「逢初(あいぞめ)桜」が人気だ。元々は「遊客の良き出会いをかなえる」というのが由来のようだが、今では「思い人に会える」と若い女性の参詣が絶えない。

かつて大門近くにあった吉徳稲荷に、郭内四隅にあった稲荷を合祀(ごうし)した吉原神社。左が御神木の一つ「逢初桜」
かつて大門近くにあった吉徳稲荷に、郭内四隅にあった稲荷を合祀(ごうし)した吉原神社。左が御神木の一つ「逢初桜」

吉原大門交差点より、土手通りの待乳山方面を望む。真ん中に東京スカイツリー、右には見返り柳が見える
吉原大門交差点より、土手通りの待乳山方面を望む。真ん中に東京スカイツリー、右には見返り柳が見える

浮世写真家 喜千也「名所江戸百景」:広重目線で眺めた東京の今
「名所江戸百景」は、ゴッホやモネなどに影響を与たことで知られる浮世絵師・歌川広重(うたがわ・ひろしげ)の傑作シリーズ。 安政3年(1856年)から5年にかけて、最晩年の広重が四季折々の江戸の風景を描いた。大胆な構図、高所からの見下ろしたような鳥瞰(ちょうかん)、鮮やかな色彩などを用いて生み出された独創的な絵は、世界的に高い評価を得ている。その名所の数々を、浮世絵と同じ場所、同じ季節、同じアングルで、現代の東京として切り取ろうと試みているのが、浮世写真家を名乗る喜千也氏。この連載では、彼のアート作品と古地図の知識、江戸雑学によって、東京と江戸の名所を巡って行く。

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