『四ツ木通用水引ふね』:浮世写真家 喜千也の「名所江戸百景」第115回

歴史

歌川広重『名所江戸百景』目録では第33景となる「四ツ木通用水引ふね(よつぎどおりようすい ひきふね)」。江戸郊外の交通手段、引き舟を描いた、色遣いの美しい春の1枚である。

人が船を引くのどかな風景を、見事な構図で描く

題名にある「引ふね(引き舟、曳舟)」は、広重の絵の通り、岸辺から綱で人力によって引っ張る珍しい舟である。単なる交通手段ではなく、旅先へ向かう際の娯楽の一つでもあったようだ。

引き舟が浮かぶ細い川は、元々は飲み水用に開削された本所上水(別名・亀有上水)だった。明暦の大火(1657年)後に、隅田川東岸の人口が急激に増えたことで、越谷付近から利根川水系の水を引き、葛飾の亀有村や四ツ木村、小梅村(現在の墨田区向島、東京スカイツリーの西側)などを経由し、本所方面まで給水した。享保の改革(1722年)の際、維持費が理由で廃止となるが、農業用の水路として残されたのだ。

川沿いの四ツ木通りは、亀有村で水戸街道とぶつかり、柴又帝釈天(たいしゃくてん)への参詣時にも利用されたので往来が多く、水路も次第に「四ツ木通用水」と呼ばれるようになったのだろう。水運用に掘削したのではないので、浅い上に狭く、櫓(ろ)や棹(さお)を使うのが難しいため、舟は陸から人が引っ張った。その風流な光景が定着すると「曳舟川」とも呼ばれて、江戸の名所となっていく。

明治初期の『迅速測図』(農業環境技術研究所 歴史的農業景観閲覧システム)を、浅草寺から下矢切までを切り抜き、水色の点線で曳舟川、紫の破線で奥州街道、赤の破線で水戸街道を示した。渋江村の西で交差する細い川は綾瀬川で、現在は並行して荒川放水路が通っている
明治初期の『迅速測図』(農業環境技術研究所 歴史的農業景観閲覧システム)を、浅草寺から下矢切までを切り抜き、水色の点線で曳舟川、紫の破線で奥州街道、赤の破線で水戸街道を示した。渋江村の西で交差する細い川は綾瀬川で、現在は並行して荒川放水路が通っている

広重著の『絵本江戸土産 7編』(1857年頃刊 国会図書館蔵)にも、「四ツ木通引舟道」という題で同じ場所が描かれている。こちらでも、川が大きく湾曲しており、解説には「水竿(ざお)を操り 櫓をおすより またその客は風雅なり」と記されている
広重著の『絵本江戸土産 7編』(1857年頃刊 国会図書館蔵)にも、「四ツ木通引舟道」という題で同じ場所が描かれている。こちらでも、川が大きく湾曲しており、解説には「水竿(ざお)を操り 櫓をおすより またその客は風雅なり」と記されている

広重は、春の風景を鳥瞰(ちょうかん)で描いている。具体的な村名は記されていないが、引き舟が往来した亀有村から、四ツ木村の南西にあった篠原村(現・葛飾区四つ木)までの間なのは間違いないだろう。川上に見える橋は水戸街道だと思われるので、その手前の舟だまり辺りは亀有村だと推測できる。遠くに見えるのは日光連山のシルエットのようだが、方角的には筑波山と考えるのが妥当だ。

人工の堀川なので直線的なはずだが、随分と蛇行している。明治時代の地図で確認すると、所々にゆるいカーブがあるだけなので、広重は奥行き感を出すことで川の長さを誇張したかったのだろう。モノトーンの田園地帯に、水の青と四ツ木通りの黄土色、それを縁取る緑が美しい曲線を描いて浮かび上がり、かすみの赤や空の濃紺ともコントラストを生む。こんな絵を見れば、江戸っ子はこぞって柴又へと出掛けたのではと想像してしまう、計算し尽くした構図だ。

現在、曳舟川は全て埋め立てられ、荒川放水路ができたことで元の流路は大きく分断された。墨田区側では東武スカイツリーライン「曳舟」駅や「京成曳舟」駅、曳舟川通り、葛飾区側は曳舟川親水公園などにその名が残る。広重が描いた辺りには、細長い親水公園が続いているので、2020年の早春に訪れた。土手の間を流れる川をイメージさせる区間があったのでファインダーをのぞくと、川の緩やかなカーブ、両岸土手の色彩が広重の絵と重なったのでシャッターを切った。

関連情報 

曳舟川、柴又帝釈天

広重は『絵本江戸土産』に、舟に乗ったまま「新宿(にいじゅく、葛飾区)の渡し」まで出ることが可能だと記している。明治初期の地図で確認すると、曳舟川が水戸街道とぶつかる少し手前に、東に折れる細い水路が中川まで続く。そこを通れば、篠原村からほとんど歩くことなく、水戸街道の一番宿まで行けたのだろう。

四ツ木通りは、浅草や本所方面から水戸街道への近道であると同時に、映画・寅さんでおなじみの柴又帝釈天へ向かう道でもあった。正式名称は「経栄山題経寺」で、新宿の隣村にある日蓮(にちれん)宗の寺院である。

創建は寛永年間(1624-45)で、開祖・日蓮が木の板に彫った帝釈天像を本尊としたが、一時期行方不明になってしまう。江戸時代中期、9代目住職の日敬(にっきょう)が本堂を改修しようとした際、梁(はり)の上にあるのを見付けたという。数年後、天明の大飢饉(だいききん、1782-88年)で凶作が続いたため、日敬は板本尊を背負って江戸と下総を巡った。これが評判を呼び、江戸っ子の信奉を集めるようになっていく。

年に6回ほどある縁日には、参詣者が押し寄せ、四ツ木通りや新宿あたりまで混み合ったそうだ。江戸後期には旅行人気が高まったので、関所が置かれる矢切の渡しの手前にある柴又は、手軽な旅にうってつけの場所だったのだろう。その際には、引き舟に乗るのを楽しみにしていた人も少なくなかったはずだ。

柴又帝釈天参道は現在も人気スポットで、平日の昼間でもにぎわっていた。奥に見える大きな屋根が帝釈堂前の二天門
柴又帝釈天参道は現在も人気スポットで、平日の昼間でもにぎわっていた。奥に見える大きな屋根が帝釈堂前の二天門 

明治の中頃になると人力車が普及し、引き舟は廃れていった。曳舟川自体も1929(昭和4)年の荒川放水路の開削で大きく分断されてしまう。これに伴って道路整備が進み、戦後の高度成長期には水質も悪化。今では全ての流れが埋め立てられたが、葛飾区には跡地を利用した曳舟川親水公園が残り、地域住人の憩いの場となっている。

東京スカイツリーや柴又帝釈天方面を訪れる際には、川面に浮かぶ舟を陸から引っ張る風流な景色を思い浮かべてみてほしい。

曳舟川親水公園の四つ木付近は、江戸の堀端の船着き場のような造り。夏場には水が張られ、子どもが水遊びをしている
曳舟川親水公園の四つ木付近は、江戸の堀端の船着き場のような造り。夏場には水が張られ、子どもが水遊びをしている

浮世写真家 喜千也「名所江戸百景」:広重目線で眺めた東京の今
「名所江戸百景」は、ゴッホやモネなどに影響を与たことで知られる浮世絵師・歌川広重(うたがわ・ひろしげ)の傑作シリーズ。 安政3年(1856年)から5年にかけて、最晩年の広重が四季折々の江戸の風景を描いた。大胆な構図、高所からの見下ろしたような鳥瞰(ちょうかん)、鮮やかな色彩などを用いて生み出された独創的な絵は、世界的に高い評価を得ている。その名所の数々を、浮世絵と同じ場所、同じ季節、同じアングルで、現代の東京として切り取ろうと試みているのが、浮世写真家を名乗る喜千也氏。この連載では、彼のアート作品と古地図の知識、江戸雑学によって、東京と江戸の名所を巡って行く。

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