『砂むら元八まん』:浮世写真家 喜千也の「名所江戸百景」第113回

歴史

歌川広重『名所江戸百景』目録では第29景となる「砂むら八まん」。房総半島が見渡せる、江戸の外れにあった海辺の景勝地を描いた春の1枚である。

春には桜に彩られた海浜の景勝地

江東区東部には北砂や南砂、東砂、新砂と、地名に「砂」の付く一帯がある。現在は大規模マンションが立ち並び、大型商業施設も増えている人気住宅街だが、江戸時代には「砂村新田」という開拓地だった。

元々は中川(現・荒川放水路)河口のデルタ地帯のため、葦(アシ、ヨシ)が茂る砂州のような場所で、満潮になると水没し、浮島が点在していたと推測できる。そんな土地を埋め立て、田畑を作ったのが名の由来に思えるが、実は開拓を指導した砂村新左衛門の姓にちなんだものだ。明暦の大火直後の万治年間(1658-61)に、小高い浮島だった「宝六島(ほうろくとう)」周辺を土手で囲んで干拓した。新左衛門自身は「宝六島新畠」と命名したというが、彼の没後に砂村新田と呼ばれるようになったという。

『安政改正御江戸大絵図』(1858年、国会図書館蔵)より、深川の富岡八幡宮(左下)から中川河口(右下)までを切り抜いた。砂村新田を緑の線、元八幡宮と書かれた敷地を赤で囲った
『安政改正御江戸大絵図』(1858年、国会図書館蔵)より、深川の富岡八幡宮(左下)から中川河口(右下)までを切り抜いた。砂村新田を緑の線、元八幡宮と書かれた敷地を赤で囲った

今回の絵は、宝六島だった場所に鎮座する「元八幡宮」の参道から、南東の江戸湾方向を俯瞰(ふかん)で描いている。元八幡宮は、現在も南砂7丁目に残る富賀岡八幡宮のこと。社伝によると創建は8世紀半ばで、1627(寛永4)年に菅原道真の末裔(まつえい)といわれる長盛法院が、ここに祀(まつ)っていた八幡神像を、深川八幡宮(富岡八幡宮)に勧請(かんじょう)したとされる。深川八幡の旧地ということで、江戸っ子は「元八幡」と呼ぶようになったようだ。享保年間(1716-1735)、境内にたくさんの桜や松が植えられると、海辺の景勝地としてにぎわったという。

安政時代の地図では、東側は中川まで新田が続き、南は砂地を示す「寄洲」と記されているが、広重の絵を見る限りでは、いずれも海水が入り込んでいたようだ。『名所江戸百景』の20年ほど前に出版された『江戸名所図会』でも、周囲に水田は見られず、荒涼とした雰囲気である。元八幡が名所だったのは、房総半島の山並みまで見渡せる海側の眺めと、松の間に咲く春の桜のおかげだったのだろう。あえて社殿を描かず、元八幡を鳥居のみで表現したのが広重らしく、海側の絶景も強調される構図はさすがの一言だ。

『江戸名所図会』7巻「砂村冨岡元八幡宮」(1836年刊、国会図書館蔵)より。右上には「洲崎弁天より十八丁(約2キロ)あまり東の海浜にあり、深川八幡宮の旧地なりといへり」とある。神社の左右に「此の辺矢竹多し」の記載があるので、周囲には雑草が生い茂っていたようだ
『江戸名所図会』7巻「砂村冨岡元八幡宮」(1836年刊、国会図書館蔵)より。右上には「洲崎弁天より十八丁(約2キロ)あまり東の海浜にあり、深川八幡宮の旧地なりといへり」とある。神社の左右に「此の辺矢竹多し」の記載があるので、周囲には雑草が生い茂っていたようだ

2017年の桜が咲いた頃、富賀岡八幡宮を訪れた。脚立と長い一脚を使って、参道の鳥居と桜を俯瞰で捉えようとしたが、よく茂ったヒノキが邪魔になってしまう。そこで、鳥居がフレームの右下に収まる位置までカメラを下げて、シャッターを切った。今では埋め立て地が広がり、建物で海は見えないが、満開の桜を澄んだ青空が引き立ててくれたので作品に仕上げた。

●関連情報 

元八幡と深川八幡、砂村新田

富賀岡八幡宮の社伝や『江戸名所図会』に加え、広重著の『絵本江戸土産』(1851年頃刊)でも、ここにあった八幡神像が深川に遷(うつ)されたとしている。ところが、富岡八幡宮の社伝や由緒書きなどに「元八幡」の記載は見当たらない。社務所に直接問い合わせてみると、「当社には、そのような記録は一切ありません」ときっぱり否定された。

江戸名所図会などの元ネタとなったのは、幕府の教育機関・昌平坂学問所が編さんし、1830(文化7)年に完成した『新編武蔵風土記稿』だと考えられる。「砂村新田」の項を確認してみると、元八幡宮について「土地の人によれば、八幡神を最初に勧請したが、寛永(1624-44)初期に深川へ遷したため旧地となった」「1665(寛文5)年、深川から八幡神の分霊を勧請し直して、元八幡と唱えた」と紹介している。

ただ、この文中でも、深川八幡を管理していた永代寺が「寛文の勧請のみ伝わり、元地であるとは伝わっていない」と、元八幡説を認めていない。その姿勢は200年たった今でも、全く変わらないのだ。

1884(明治17)年刊の活字版『新編武蔵風土記稿 巻之25』(国会図書館蔵)の挿絵「元八幡社地図」。広重や江戸名所図会よりも境内や参道を広々と描いており、土手の外側には波打ち際が迫っている
1884(明治17)年刊の活字版『新編武蔵風土記稿 巻之25』(国会図書館蔵)の挿絵「元八幡社地図」。広重や江戸名所図会よりも境内や参道を広々と描いており、土手の外側には波が迫っている

それでも、江戸っ子は「元八幡」として親しんでいたことが面白い。歴史というのは、立場や見方によって解釈が異なり、よくできた話が由緒正しい史料よりも広まる場合が多々ある。だからこそ、史実をあれこれ想像するのが楽しいのだろう。

砂村新左衛門自身が「宝六島新畠」と命名した土地も、江戸っ子には「砂村新田」として定着した。明治期に周辺の他の新田と統合され、「南葛飾郡砂村」となる。そして、1921(大正10)年の町制施行で「砂村町」でなく、「砂町」に変わってしまったことで、開拓者の名も人々の記憶から薄れていく。埋め立て地が広がったこともあり、北砂町と南砂町に分けられ、さらに北砂や南砂、東砂、新砂と細分化して「町」の字が消えた。

現在の地名からは、砂村新左衛門の存在を想起できないが、広重の浮世絵を眺めたり、富賀岡八幡宮に偶然立ち寄ったりすることで、そうした興味深い史実や伝承に出会うことができる。だから、歴史散策はやめられないと、再確認させてくれた作品であった。

富賀岡八幡宮の境内。社殿は戦後に再建したが、鳥居は名所江戸百景の5年後(1861年)に奉納されたものが残っているようだ
富賀岡八幡宮の境内。社殿は戦後に再建したが、鳥居は名所江戸百景の5年後(1861年)に奉納されたものが残っているようだ

本殿の裏手には浅間神社が祀られ、その傍らには富士塚が築かれている
本殿の裏手には浅間神社があり、その傍らには富士塚が築かれている

浮世写真家 喜千也「名所江戸百景」:広重目線で眺めた東京の今
「名所江戸百景」は、ゴッホやモネなどに影響を与たことで知られる浮世絵師・歌川広重(うたがわ・ひろしげ)の傑作シリーズ。 安政3年(1856年)から5年にかけて、最晩年の広重が四季折々の江戸の風景を描いた。大胆な構図、高所からの見下ろしたような鳥瞰(ちょうかん)、鮮やかな色彩などを用いて生み出された独創的な絵は、世界的に高い評価を得ている。その名所の数々を、浮世絵と同じ場所、同じ季節、同じアングルで、現代の東京として切り取ろうと試みているのが、浮世写真家を名乗る喜千也氏。この連載では、彼のアート作品と古地図の知識、江戸雑学によって、東京と江戸の名所を巡って行く。

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