『千駄木団子坂花屋敷』:浮世写真家 喜千也の「名所江戸百景」第112回
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展望風呂の下に描かれた、花見名所はどこの水辺か?
上野公園の北西に位置する文京区の千駄木は近年、隣接する根津、台東区谷中とともに「谷根千(やねせん)」と呼ばれている。根津神社を代表とする歴史ある神社仏閣や古民家カフェなどが点在し、にぎやかな谷中銀座商店街もあり、下町情緒が漂う散歩エリアとして人気だ。今回の絵の舞台「団子坂」は、東京メトロ・千代田線「千駄木」駅から西の白山へと向かう場所に現在も残る。
千駄木の地名の由来には諸説あるが、「千駄にも及ぶ木が茂っていた」というのが有力だ。「1駄」とは馬1頭が背負える量で、「千駄」はものすごく大量のものを表現する際に使用したので、この辺りの雑木林では薪(まき)にする木をたくさん伐採できたようだ。江戸時代、団子坂の上には、将軍家菩提(ぼだい)寺の上野寛永寺で大量に使う薪や護摩木を採集する「千駄木御林」が広がっており、周りには植木屋も多かったので、まさに地名にふさわしい場所だった。
団子坂は、「坂の下に団子屋があったから」だとか、「急坂で雨が降ると滑りやすく、転ぶと汚れて団子のようになった」からだと伝わる。坂の上からは眺望が良く、江戸湾まで望めたため、古くは「汐見坂」と呼ばれていた。行楽客に人気の日暮里や根津神社に程近い景勝地で、白山や本郷方面からの往来もあったので、坂下に団子屋があったとしたら、さぞ繁盛したであろう。
広重の絵で木々が生い茂る高台に建つ、渡り廊下でつながった2棟の楼(たかどの)は「紫泉亭(しせんてい)」という茶屋だ。千駄木に古くからある植木屋の楠田宇平次が1852(嘉永5)年、団子坂上の南に開業した「花屋敷」の中心施設で、単に料理や眺望、四季の花々を楽しむだけでなく、露天風呂まで備えていた。湯あみする客向けに浴衣も貸し出していたというから、現代の高級リゾートスパのような施設である。絵が摺(す)られたのは1856(安政3)年5月のため、江戸の新名所だったのだろう。
この絵の構図は、中央に横たわる春霞によって上下に分かれている。そのため、上部と下部は離れた場所の風景で、それを広重が合体させたものだという説が少なくない。老若男女が花見を楽しむ水辺は、普通に考えれば「不忍池に通じる藍染川の西岸」となるが、「小倉藩主・小笠原左京大夫の抱屋敷内の池」「根津権現社(現・根津神社)の池」などの説があり、「紫泉亭直下にある花屋敷内の池」だと考える人も多いようだ。
しかし、やはり筆者は「藍染川説」を推す。広重著の『絵本江戸土産』の「千駄木団子坂花家舗」では、ほとんど同じ場所を横構図で描いており、『名所江戸百景』では枠外となる左ページの景色を見れば池ではなく、川だと思えるからだ。橋の手前に立つ鳥居も、藍染川東岸の大圓(だいえん)寺境内にある疫病よけの「瘡守稲荷(かさもりいなり)」のものだと推測できる。
では、なぜ霞をかけたのか? 『安政改正御江戸大絵図』を見ると、梅屋敷(花屋敷のこと)と藍染川の間には「ヲルスイクミ(御留守居組)」と書かれており、『江戸切絵図』には10軒の旗本屋敷が並ぶ。
幕府の留守居役は、直参旗本の中でも高い役職の一つ。この時代、浮世絵に幕府関連施設を詳細に描くことは許されなかったので、広重はこれを隠そうと考えたのだろう。また、役職は高くても、一時的に暮らす役宅なので大名屋敷ほど立派ではない。花屋敷・紫泉亭の風流な景観を邪魔すると考え、あえて隠したのかもしれない。
2017年の桜が満開の頃に団子坂下辺りを訪れたが、桜どころか街路樹もほとんどなく、藍染川も暗渠(あんきょ)となっている。一応撮影して、広重の花見図を合成してみたが、作品とはとても呼べない仕上がりだった。
その後、何度か谷根千エリアを散策し、「須藤公園」という和風回遊式公園の存在を知った。団子坂より100メートルほど北に位置するが、花屋敷と同じ斜面を利用しており、池や桜の木もある。2022年春、池を手前にして、桜の咲く坂道にカメラを向けると、紫泉亭と同じような2棟の低層マンションが並んでフレームに収まった。
●関連情報
団子坂、花屋敷、植木屋
千駄木花屋敷が開業する14年前に出版された『江戸名所図会』の「根津権現旧地」には、団子坂上の「植木屋」の姿が描かれている。近くには茶屋が並び、往来する人も少なくないことから、すでに紫泉亭の構想をしていたのではないかと想像してしまう。
現在の東京で「花屋敷」といえば、多くの人が思い浮かべのは昭和レトロな「浅草花やしき」遊園地だろう。実はこの2つには共通点がある。浅草花やしきは1853(嘉永6)年、菊細工と牡丹(ぼたん)を中心とした植物園「花屋敷」として開園した。創業者は千駄木の植木屋・森田六三郎。同じ地区の同業者が、1年違いで同じ名前の施設を始めたのだから、互いを意識していなかったはずがない。
当時は大名屋敷や寺社地が江戸の広域を占めており、造園業者のような大店(おおだな)の植木屋も多かった。特に花屋敷を手掛けたような植木屋は、草花に造詣が深いだけではなく、流行を察知しながら品種改良に精を出すなど、芸術的センスとビジネスのセンスも兼ね備えていたのだ。
団子坂では、浅草の花屋敷が売り物とした菊細工を発展させた「菊人形」が、幕末から明治期にかけて大はやりする。人気歌舞伎の名場面などを、大量の菊の花で作った衣装を着けた人形で再現。1876(明治9)年からは入場料を取り始め、坂の両側には菊人形の興行小屋が立ち並び、東京の秋の風物詩となった。菊人形は明治の末に衰退し、植木屋の多くも郊外に移転してしまったが、その伝統は湯島天神の「文京菊まつり」や、根津神社の「文京つつじまつり」に引き継がれている。
現在の団子坂下では、団子屋ではなく、老舗菓子店「菊見せんべい」が繁盛している。1875年創業で、菊人形の見物客向けの土産物として、珍しい正方形のせんべいを売り出し、今でも愛され続けている。