『吾嬬の森連理の梓』:浮世写真家 喜千也の「名所江戸百景」第111回

歴史

歌川広重『名所江戸百景』目録では第31景となる「吾嬬の森連理の梓(あづまのもり れんりのあずさ)」。日本武尊(やまとたけるのみこと)の東征にまつわる神社を描いた春の1枚である。

画題はアズサだが、実際に立っていたのはクスノキだった

「吾嬬の森」とは吾嬬大権現社のことで、現在も吾嬬神社の名で墨田区立花1丁目に残っている。

北十間川沿いに位置し、広重が対岸の亀戸で、ゴッホが模写した『亀戸梅屋舗』やモネに影響を与えた『亀戸天神境内』を描いたことからも、風光明媚(めいび)な地域だったことが分かる。浅草の東にある吾妻橋は「吾嬬大権現に通じる」ことが由来との説もあるので、江戸っ子には人気の名所だったようだ。

『安政改正御江戸大絵図』(1858年、国会図書館蔵)より、左中央の「東橋(現・吾妻橋)」から、紫の線で囲った「アヅマノモリ(現・吾嬬神社)」までを切り抜いた。吾嬬の森の周りは全て田畑緑地だったことが分かる
『安政改正御江戸大絵図』(1858年、国会図書館蔵)より、左中央の「東橋(現・吾妻橋)」から、紫の線で囲った「アヅマノモリ(現・吾嬬神社)」までを切り抜いた。吾嬬の森の周りは全て田畑緑地だったことが分かる

吾嬬神社の祭神は弟橘媛(おとたちばなひめ)で、夫の日本武尊が合祀(ごうし)される。社伝では、日本武尊の東国征伐にまつわる入水(じゅすい)伝説に起源を持つという。一行が船で相模国(現・神奈川県)から上総国(現・千葉県)へ渡る途中に暴風が吹き荒れたが、弟橘媛が海神の心を静めるために水中に身を投じると、天候が穏やかになったそうだ。陸にたどり着いた日本武尊が「吾嬬(あづま=わが妻)恋し」と嘆くと、弟橘媛の装束が流れて来た。その形見を納めるために、土を盛って築いた塚が、吾嬬神社の始まりである。

1199(正治元)年には、後に鎌倉幕府の3代執権となる北条泰時が社殿を造営。鎌倉時代末期に創建の真言宗寺院「寶蓮寺(ほうれんじ、現・江東区亀戸)」が境内を管理するようになると、「吾嬬大権現社」と称し、武家を中心に尊崇を集めたという。

『江戸名所図会』7巻(1836年刊、国会図書館蔵)では、「吾嬬森 吾妻権現 連理樟」の次ページに弟橘媛が自ら海中に飛び込む逸話も記されている
『江戸名所図会』7巻(1836年刊、国会図書館蔵)では、「吾嬬森 吾妻権現 連理樟」の次ページに弟橘媛が自ら海中に飛び込む逸話も記されている

江戸時代、人気を呼んだのが連理の御神木。連理とは、1つの根から幹が2本伸びたり、別々の木の枝がつながったりすることを言うが、この御神木も入水伝説に由縁を持つ。日本武尊は塚を築いた後、食事に使ったクスノキの箸を地面に刺して、天下太平を祈ったと伝わる。やがて根が張り、2本の箸が幹となって巨大な御神木に成長。連理の樹木は縁結びや夫婦円満の御利益があるとされるため、良縁を求める江戸っ子でにぎわったそうだ。

では、なぜ画題は「梓」なのか――。現代ではクスノキを「楠」と書くのが一般的だが、こちらはクスノキ科のタブノキ(別名:イヌグス)を表す文字で、本来は「樟」を使う。広重がくずし字で画題を書く際に、つくりの真ん中にある「日」を抜かしてしまったというのが定説だ。『絵本江戸土産』の「吾嬬の森」では、ちゃんと「連理の樟(くす)」と書いているので、字を知らなかったわけではない。

アズサは浮世絵などの版木に使用することが多く、今でも書物を出版することを「上梓(じょうし)」と言う。広重にもなじみ深い木なので「うっかり筆が滑った」のではないだろうか。

広重著『絵本江戸土産』第一編(1850年頃刊、国会図書館蔵)「吾嬬の森」は、名所江戸百景とほぼ同じ場所からの眺めを描き、解説には「連理の樟」と記される
広重著『絵本江戸土産』第一編(1850年頃刊、国会図書館蔵)「吾嬬の森」は、名所江戸百景とほぼ同じ場所からの眺めを描き、解説には「連理の樟」と記される

広重は亀戸側から鎮守の森を描いている。舟が行き来するのが北十間川で、『名所江戸百景』では土手上の桜並木が咲き誇り、参詣客は歩きながらの花見を楽しんでいる。中央右端の鳥居から始まる参道には、色鮮やかな幟(のぼり)が並び、右手の蓮池も美しい。ひときわ高い連理の樟を中心に広がる木立の中から、少しだけ社殿の屋根が頭を出している。春の田園風景を見事に描いた名作ながら、160年以上たっても「題箋(だいせん)の字を間違えた」とやゆされる迷作なのだ。

2018年、桜が満開になった頃に吾嬬神社を訪れた。現在の地名「立花」は、弟橘媛に由来する。境内はかなり小さくなり、木立ならぬ建物に囲まれているため、社殿は参道の正面からしか拝むことはできない。北十間川沿いには桜が咲き誇っていたので、これをフレームに収め、広重と同じ方角に向けてシャッターを切った。

関連情報

入水伝説、吾嬬神社 連理の樟

日本武尊が弟橘媛の死を悲しみ、「吾妻(吾嬬)よ……」と嘆いた入水伝説によって、舞台となった東国、さらには東の方角自体を「あづま」や「あずま」と呼ぶようになったという。吾嬬神社の社伝以外では、東征の帰路に「碓日坂(うすひのさか)の碓日嶺」から東方向にある海を望み、「ああ、わが妻よ!」の意の「吾嬬者耶(あづまはや)」と発したというものがよく知られている。

碓日坂の場所は、神奈川と静岡の県境の足柄峠、群馬と長野の間にある碓氷峠や、四阿山(あずまやさん)の鳥居峠など諸説ある。四阿山の東に広がる群馬県吾妻郡では、高原キャベツの産地・嬬恋村が「吾嬬恋し」に由来することが有名だ。江戸でも、日本武尊が野営陣地を置いたと伝わる湯島の高台に妻恋(つまこい)稲荷が建てられ、現在も文京区湯島3丁目に妻恋神社が残る。日本武尊は西征もしているため、祭神とする神社は東北から九州までに点在するが、弟橘媛を祭るのは、入水伝説にちなむ関東の地に限られるのだ。

考古学的には日本武尊は4世紀半ばの人物と考えられるので、広重が描いた「連理の樟」は樹齢約1500年になる。にわかには信じ難いが、鹿児島県姶良(あいら)市にある特別天然記念物「蒲生のクス」は推定樹齢1500年とも1600年とも言われ、クスノキは挿し木によって増やすこともできるため、ありえない話ではないようだ。連理の樟は昭和に入っても健在だったが、1945(昭和20)年の東京大空襲で被災。朽ち果てて空洞になった根元部分だけが残り、その傍らには新たな御神木が植えられている。

吾嬬神社の周辺も1889(明治22)年に吾嬬村になり、大正末には吾嬬町と変わったが、1932年に廃止された。その名残が、立花の地名や東武亀戸線の「東あずま」駅、東あずま公園などである。時折、東あずま駅のことを「“東”の“東”!?」「同じ意味では?」と首をかしげる人もいるようだが、1600年も語り継がれる弟橘媛の入水伝説や吾嬬神社のことが、もっと広まることを願う。

現在の吾嬬神社。少し高くなっているのは、弟橘媛の廟(びょう)だった築山の名残だろうか。社殿の両側にはクスノキの御神木が立つ
現在の吾嬬神社。少し高くなっているのは、弟橘媛の廟(びょう)だった築山の名残だろうか。社殿の両側にはクスノキの御神木が立つ

社殿の右手には連理の樟の根元が残り、石碑には「神樟」と彫られている
社殿の右手には連理の樟の根元が残り、石碑には「神樟」と彫られている

浮世写真家 喜千也「名所江戸百景」:広重目線で眺めた東京の今
「名所江戸百景」は、ゴッホやモネなどに影響を与たことで知られる浮世絵師・歌川広重(うたがわ・ひろしげ)の傑作シリーズ。 安政3年(1856年)から5年にかけて、最晩年の広重が四季折々の江戸の風景を描いた。大胆な構図、高所からの見下ろしたような鳥瞰(ちょうかん)、鮮やかな色彩などを用いて生み出された独創的な絵は、世界的に高い評価を得ている。その名所の数々を、浮世絵と同じ場所、同じ季節、同じアングルで、現代の東京として切り取ろうと試みているのが、浮世写真家を名乗る喜千也氏。この連載では、彼のアート作品と古地図の知識、江戸雑学によって、東京と江戸の名所を巡って行く。

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