『吾妻橋金龍山遠望』:浮世写真家 喜千也の「名所江戸百景」第110回

歴史

歌川広重『名所江戸百景』目録では第39景となる「吾妻橋金龍山遠望(あずまばし きんりゅうざん えんぼう)」。桜吹雪の中、川に浮かぶ舟越しに浅草寺や富士山を望んだ春の1枚である。

船上の女性より、川岸の町に色めいた江戸っ子たち

近景の屋根舟の周りに降り散る花びらで、花見シーズンだと表現するしゃれた作品だ。題名の吾妻橋は、屋根と柱に囲まれた遠景に架かっており、その奥には富士山も見える。金龍山とは浅草寺の山号で、中央付近に五重塔と大きな瓦屋根が描かれている。

江戸時代、隅田川に架かる橋は5本だけだった。長さ76間(約140メートル)の吾妻橋は、その中で最も遅い1774(安永3)年に完成。通常、これだけ大きな橋は公共事業として建造するが、吾妻橋は民間人が幕府の許可を得て架橋し、武士以外からは通行料2文(現在の価値で約65円)を徴収したという。莫大(ばくだい)な資金を投じても、それ以上の経済効果があると踏んだのだから、この辺りの当時の往来量がうかがえる。

吾妻橋と同じ方角に富士山が見えるため、隅田川上流から下流方向を望んでいる。浅草寺より上流の隅田川対岸は、桜の名所として知られる隅田堤だ。それなのに、あえて桜の木を描かないのは広重らしいのだが、そのせいで描いた場所について度々論争になる。

最も多いのは、吾妻橋から約900メートル上流にある三囲稲荷(みめぐりいなり、現・三囲神社)辺りからという説。その裏付けとなるのが、屋根船の向こう見えるヨシが生い茂る浅瀬である。三囲稲荷の対岸(西岸)は山谷掘の河口で、周辺にはヨシが群生していたからだ。しかし、広重が描いた『絵本江戸土産』の「宮戸川吾妻橋」では、吾妻橋のかなり近くまで浅瀬が続いている。この地点の隅田川東岸は水戸徳川家の下屋敷で、現在の墨田区立隅田公園(向島1丁目)。地図で隅田公園と吾妻橋、富士山を線で結ぶと一直線になるが、三囲神社から吾妻橋を望んだ場合、富士山はもう少し右側に見えるはずだ。

広重著『絵本江戸土産』第一編(1850年頃刊、国会図書館蔵)「宮戸川吾妻橋」では、吾妻橋の東岸上流方向を描いている。白い帆をあげた船の奥が水戸殿屋敷で、川岸の道は誰でも往来できた
広重著『絵本江戸土産』第一編(1850年頃刊、国会図書館蔵)「宮戸川吾妻橋」では、吾妻橋の東岸上流方向を描いている。白い帆をあげた船の奥が水戸殿屋敷で、川岸の道は誰でも往来できた

『安政改正御江戸大絵図』(1858年、国会図書館蔵)より、吾妻橋から山谷堀までを切り抜いた。「吾妻橋」は「東橋」と記載してある。右上の「ミメグリイナリ」の川岸から描いたという説が多いが、筆者は「●水戸殿」の文字の左あたりからと考えている
『安政改正御江戸大絵図』(1858年、国会図書館蔵)より、吾妻橋から山谷堀までを切り抜いた。「吾妻橋」は「東橋」と記載してある。右上の「ミメグリイナリ」の川岸から描いたという説が多いが、筆者は「●水戸殿」の文字の左あたりからと考えている

背中だけが見える屋根船に乗る女性を、「芸者」と決めつけた解説が多いことも気になる。黒い掛け襟の着物は、浮世絵に登場する既婚女性がよく身に付けているものだ。座敷に上がる芸者には地味過ぎるので、花街の女性なら三味線などを演奏する地方(じかた)や女将といった裏方の可能性が高い。

それでは、絵に艶っぽさが足りないと考える向きもおいでだろうが、実はそうでもない。中央の川岸は花川戸町や山之宿町(やまのしゅくまち)で、浅草寺の荷下ろし場や、商家の船着き場が並んでいた。この絵が描かれた1857(安政4)年春は、安政江戸地震の1年半後で、被災した吉原遊郭の妓楼(ぎろう)約40軒が、この辺りで仮宅営業していた。それが、広重の “裏テーマ”ではないかと筆者は考えている。発売当初、多くの荷船や立てかけられた材木を見て、その背後に一時的に誕生した遊里を思い浮かべ、ニンマリとした江戸っ子もいたはずだ。

現在はビルが立ち並び、東岸から隅田川越しに浅草寺の建物を見ることはできない。また、隅田公園辺りの川岸から下流方向を望むと、東武伊勢崎線の隅田川橋梁が邪魔で、吾妻橋の全景を写せない。さらに、今回の絵は夕方の景色だが、写真では逆光になってしまう。そこで、2018年桜が満開になった頃、早朝に出掛け、隅田川橋梁付近でカメラを構えた。朝焼けに染まるビル群と対岸の桜の色が、赤い吾妻橋をより引き立てているように感じられたので、シャッターを切った。

関連情報

吾妻橋、花川戸

吾妻橋は当初、隅田川の別称「大川」にちなみ「大川橋」と名付けられたが、次第に「あずま橋」と呼ばれるようになったそうだ。

江戸の東に位置し、東の向島や下総に行く際に使うためという説が有力だが、隅田川東岸に吾嬬(あずま)神社があるからだとか、伊勢物語に登場する在原業平の東下りに由来するとの説もある。隅田川に架かる橋は、千住大橋以外はいずれも江戸の東にあるので、筆者は伊勢物語説を推したい。

江戸時代には「東橋」と書かれることも多かったが、明治に入って「吾妻橋」が正式名称となる。「浅草」という地名が使われた最も古い書物が、鎌倉時代に北条得宗家が記録した『吾妻鏡(あづまかがみ)』だったことと関係があるとも考えられる。

現在、花川戸町や山之宿町は、台東区花川戸となっている。花川戸と言えば、花川戸助六が主人公の歌舞伎『助六所縁江戸桜』(通称:助六)を思い出す人もいるだろう。かつての荷下ろし場は、桜名所として名高い台東区立隅田公園に変わり、その西側の道は「助六夢通り」と名付けられている。花見で訪れた際には、広重が生きた時代の江戸っ子になったつもりで、桜咲く吉原遊廓で助六が繰り広げた喧嘩や啖呵(たんか)を思い浮かべてみるのも一興だろう。

現在は、「浅草寺雷門から、スカイツリーへ向かう時に渡る橋」として、観光客に知られている吾妻橋
現在は、「浅草寺雷門からスカイツリーへ向かう時に渡る橋」として、観光客に知られている吾妻橋

石畳風に舗装された助六夢通りと台東区立隅田公園
石畳風に舗装された助六夢通りと台東区立隅田公園

浮世写真家 喜千也「名所江戸百景」:広重目線で眺めた東京の今
「名所江戸百景」は、ゴッホやモネなどに影響を与たことで知られる浮世絵師・歌川広重(うたがわ・ひろしげ)の傑作シリーズ。 安政3年(1856年)から5年にかけて、最晩年の広重が四季折々の江戸の風景を描いた。大胆な構図、高所からの見下ろしたような鳥瞰(ちょうかん)、鮮やかな色彩などを用いて生み出された独創的な絵は、世界的に高い評価を得ている。その名所の数々を、浮世絵と同じ場所、同じ季節、同じアングルで、現代の東京として切り取ろうと試みているのが、浮世写真家を名乗る喜千也氏。この連載では、彼のアート作品と古地図の知識、江戸雑学によって、東京と江戸の名所を巡って行く。

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