『目黒元不二』:浮世写真家 喜千也の「名所江戸百景」第107回
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巨大な富士塚は、広重の誇張し過ぎか?
江戸中期の享保年間(1716〜36)頃から、富士山を神体とあがめる民間信仰が盛んになり、一緒に登拝(とうはい)をする集団「富士講」が次々と組織された。そのあまりの数に、江戸の町の多さを表現する「八百八町(はっぴゃくやちょう)」に引っ掛け、「八百八講」と呼ばれたそうだ。
町ごとに富士講があるほどの状況だったが、当時の江戸っ子には富士登山どころか、浅間大社(静岡県富士宮市)や冨士浅間神社(山梨県富士吉田市)を訪れるのさえ、日程的にも金銭的にも困難だった。18世紀末、富士山麓から運んだ溶岩を積み上げた「富士塚」が、高田村(現・新宿区西早稲田)の水稲荷神社に築かれた。この「高田富士」に登って本物の富士山を拝めば、富士詣でと同じ御利益があるというので大変な人気を博す。以降、幕末までの間に、江戸近郊に20以上もの富士塚が造られたのだ。
高台の多い目黒は眺望がよく、富士見の名所として知られた。当然、富士講も盛んで、1812(文化9)年に高さ4丈(約12メートル)の富士塚が、上目黒村(現・目黒区上目黒1丁目)に誕生した。築山した講の紋が「丸に且(かつ)の字」だったため、「丸且山」などと呼ばれたが、7年後には東の三田村鎗ヶ崎(現・中目黒2丁目)にも富士塚が完成する。そのため、上目黒を「目黒元富士」、三田村を「目黒新富士」、または「西富士」や「東富士」と呼ぶようになったという。
今回の絵について、よく話題になるのが「元富士が大き過ぎるのでは?」ということ。確かに、現存する他の富士塚と比べると、かなり誇張しているように思えるが、実際に現地を訪れると納得がいく。元富士があったのは、東急東横線の中目黒駅と代官山駅の間で、線路が切り通しになっている場所の西側だ。今は高級マンション「キングホームズ代官山」が建っているが、かなりの高台で、線路施設工事前はなだらかな丘だった可能性が高い。
広重は『絵本江戸土産』の「目黒元不二下通」で、現在の中目黒駅側から見上げるように元富士の全景を描いている。中目黒駅と代官山駅辺りの標高差は20メートル以上あるので、自然の地形をうまく利用し、丘の上に富士を模した頂上を積み上げれば、絵のような立派な富士塚になったのではないだろうか。
名所江戸百景の『目黒元不二』と『目黒新富士』には、両方に桜が登場するが、元富士の方は「実は紅葉ではないか」という説もある。広重が直接指示した初摺(しょずり)では、元富士の花部分に、カエデなどによく使われるオレンジ系の顔料「丹(たん)」を選んでいるからだ。しかし、年月印は2枚とも1856(安政3)年の4月で、同じ時期に描いた絵だと考えるべきだろう。絵本江戸土産でも、富士塚下に桜のような木が並び、よく見ると仮設の茶屋が並んでいるので、筆者は花見説を推したい。
元富士があった斜面は現在、マンションの敷地内となっている。「目黒元富士跡」の説明板は、西側の目切坂に面するゲートの横に立っているが、富士塚は敷地の奥にそびえていたので、同じ場所での撮影は難しい。そして個人的には、『目黒新富士』では写真に桜を登場させられなかったので、『目黒元不二』で桜にこだわりたかった。
近くを探すと、向かいの代官山ヒルサイドテラス(猿楽町)に立派な桜が植えてある。友人の紹介で管理会社に連絡し、屋上での撮影許可をもらった。広重が富士山を描いた位置に、元富士があったマンションが写り込んだので、作品に仕上げた。
●関連情報
目黒元富士と丸且講
富士塚は江戸時代、庶民からは「お富士さん」と呼ばれていたという。富士山の山開きの日と同じ旧暦6月1日、白装束を着た富士講の面々が登拝し、頂上にある祠(ほこら)に手を合わせた。その頂上からは富士山が見えねばならないので、西側が開けた高台や斜面に築山する場合が多く、自然の地形を生かしたようだ。
富士塚の中には、古墳の丘を再利用したものも少なくない。代官山ヒルサイドテラスの敷地内には円墳の猿楽塚があり、地名・猿楽町の由来となった。すぐ近くだけに、目黒元富士も「丘にあった古墳の上に築いたのかも」などと想像してしまう。
目黒元富士のあった一帯は、1878(明治11)年に明治新政府の重鎮・岩倉具視の別邸となった。地元の富士講はやむなく、富士塚にあった祠や石碑を氏神の「上目黒氷川神社」(目黒区大橋)の境内に移し、浅間神社を建てた。岩倉邸は東武鉄道社長の根津嘉一郎に引き継がれ、1939(昭和14)年の改築の際、目黒元富士は完全に取り壊されたという。
1975年頃、氷川神社の端っこに「富士浅間登山道」が造られた。毎年山開きの7月1日、氏子がこの道を登り、浅間神社の例大祭を執り行っている。
目黒元富士についての解説や論文には、別名を「丸旦山」、築いた富士講を「丸旦講」と書いてあるものがほとんどで、筆者もそう覚えていた。この原稿を書くに当たって、社務所で確認すると「旦」ではなく「且」だそうだ。
この2つは混同されやすく、葛飾北斎の富嶽(ふがく)三十六景『礫川雪ノ且(こいしかわゆきのあした)』は、逆に「旦」が正しい。氷川神社に残る石碑を見ると「丸に旦の字」にも見えるが、氏子から石碑を預かった神社が言うのだから説得力がある。今後は「丸且山」や「丸且講」と、正しく伝わっていくことを期待したい。