『深川木場』:浮世写真家 喜千也の「名所江戸百景」第103回

歴史

歌川広重『名所江戸百景』目録では第106景となる「深川木場(ふかがわきば)」。雪が降り積もる深川の材木置き場で、筏(いかだ)を操る作業員を描いた1枚である。

なぜ大雪の木場で、筏づくりに励んだのか?

江戸時代の建物は、ほぼ全てが木造のため、大量の材木を貯蔵しておく必要があった。江戸の町の貯木場として知られるのが、深川・富岡八幡宮の東に広がっていた「木場」である。

幕末頃の地図を見ると、現在の江東区・木場公園と東京メトロ東西線・木場駅一帯が、直線の水路で区分けされている。

『安政改正御江戸大絵図』(1858年刊、国会図書館蔵)の、永代橋から木場までを切り抜いた。広重の時代、右側の紫の波線で囲った場所に材木商たちの木置き場と材木蔵があった
『安政改正御江戸大絵図』(1858年刊、国会図書館蔵)の、永代橋から木場までを切り抜いた。広重の時代、右側の紫の波線で囲った場所に材木商たちの木置き場と材木蔵があった

当時の材木は、河川を利用して輸送し、水に漬けてから乾燥させた。地図には「◯◯ヤ(屋) 木ハ(木場)」と屋号が記され、四角い島が並んでいるように見えるが、それぞれの区画の中心部には大きな池(水中貯木場)が設けてある。「土場」と呼ばれる陸地は区画の周辺部だけで、池は水路につながり、筏に組んだ材木を入出荷していたという。

つまり今回の絵は、どこかの区画の貯木池を描いたもの。木場の水路だとする解説も散見されるが、それは間違いの可能性が高い。そして、本来であれば殺風景でありそうな貯木池に、風流な景色が広がっていたのにも理由がある。

江戸時代の材木商というと、紀伊国屋文左衛門(紀文)を思い浮かべる人も多いだろう。謎が多く、架空の人物とする学者もいるが、一般的には幕府要人への贈賄で御用商人となり、巨万の富を得たとされている。紀文には豪快なエピソードが多く、吉原遊郭を丸ごと貸し切って遊興したという逸話まで残る。これは、役人を接待したとも考えられるが、財力を見せつけることで幕府を信用させると同時に、江戸っ子の人気を得るためのパフォーマンスだったという説もある。

紀文は木場の貯木場を焼失して廃業したそうだが、大手の材木商は江戸でも有数の豪商として繁栄を続けた。彼らも紀文同様に世間の目を気にし、「野暮(やぼ)」「悪趣味」「守銭奴」といった悪評が立たぬよう、文化人とも交流し、風流人好みの景観を貯木場に造り上げていたそうだ。広重は『絵本江戸土産』で、同じ深川木場の雪景色を描き、「おのおの山水のながめありて風流の地と称せり」と書き添えている。

広重作『絵本江戸土産』第2編にある「深川木場」(1851頃刊 国会図書館所蔵)は、雪がやんだ後の貯木場の風景を描く。雪の積もった材木の上に乗る川並鳶の姿は見られない
広重作『絵本江戸土産』第2編にある「深川木場」(1851頃刊 国会図書館所蔵)は、雪がやんだ後の貯木場の風景を描く。雪の積もった材木の上に乗る川並鳶の姿は見られない

名所江戸百景と絵本江戸土産を見比べると、縦と横の構図以外にも大きな違いがある。それは、蓑笠(みのかさ)をかぶった川並鳶(かわなみとび)の姿だ。江戸百では、雪の日にもかかわらず、水上で2人の鳶が筏を組み、材木を運び出そうとしている。

絵本江戸土産の4年後の1855(安政2)年、江戸を大地震が襲い、多くの建物が倒壊、焼失した。今回の絵が摺(す)られたのは、その翌年で、復興に向けた建設ラッシュの最中である。木材の需要が一気に高まり、供給が追いつかずに価格も急騰。江戸はウッドショックの状況で、材木問屋は商品の確保や出荷で、てんてこ舞いだっただろう。

川並鳶は主人が約束した出荷分をこなすため、文句を言いながら材木を操っていたのだろうか。もしくは復興のため、雪などお構いなしに仕事に励んでいたかもしれない。一見、静かな風景画だが、2枚の絵を見比べると、その時代ならではの状況を伝えようという、広重のジャーナリスティックな視線が浮き彫りになる。

現在の木場は、一部の水路を残して埋め立てられ、水中貯木場は一切残っていない。広いエリアなので何度もロケハンへ出掛け、撮影場所に目星をつけて、雪が降るのを待った。2018年1月、深々と降る雪の中、木場公園の東に隣接する仙台堀川公園へ向かうと、思い描いた通りの構図がファインダー内に広がった。

関連情報

江戸幕府が開かれた当初、材木商と貯木場は江戸橋南詰付近の材木町(現・日本橋1丁目の首都高速・都心環状線沿い)などに集まっていたという。

3代将軍・家光の時代になると手狭になり、隅田川の東岸に新設された貯木場へと移転。さらに明暦の大火(1657年)後に、深川一帯の開発が進み、5代将軍・綱吉の時代に新大橋や永代橋が架かると、深川の富岡八幡宮周辺の人口が爆発的に増加。木材需要も急増したことで、1701(元禄14)年に八幡宮の東側に大規模な木場が新設された。

この深川木場は、十分な広さを確保しており、海辺からも近い。小名木川や竪川ともつながる大横川にも面しているので、隅田川だけでなく、中川や江戸川からの輸送も可能となり、木場の繁栄は明治以降も続いた。

木場公園の一角にある角乗り場が、かつての木場の面影を残している
木場公園の一角にある角乗り場が、かつての木場の面影を残している

今回の絵の舞台・水中貯木場だが、木材が腐るのではないかと疑問を持つ人もいるだろう。水中貯木は、運搬時の利便性が理由の一つだが、別の目的もあるので紹介したい。

第92回『佃しま住吉の祭』で紹介したとおり、木を水面下の土中に埋めれば、空気が遮断されて腐敗を防げるのだが、水に浮かべるだけでは確かに腐る。しかし、外側から徐々に腐り始めるので、太い原木が数カ月で使い物にならなくなることはない。

スギやヒノキの原木は皮だけ剥いで丸太で使うこともあるが、大半は角材や板に製材する。木には中心部の心材と、外側の辺材(色の薄い部分)があり、乾燥による収縮率が違う。辺材の方が収縮が大きく、原木をそのまま放置して自然乾燥させると、ヒビ割れしてしまうことが多い。

そこで、経験から生み出されたのが水中乾燥である。水につけておくことで収縮率の差が小さくなり、割れたり、反ったりしにくくなる。さらに、水中で樹液や不純物が落ちるので、水から出した後の乾燥は、自然乾燥より速いというメリットもあるようだ。近年の建築業界では、主に修正材や圧縮木材などを使用するが、一部では水中貯木による乾燥方法も見直されているらしい。

深川の木場は、太平洋戦争後も新しい設備を導入しながら存続した。しかし、輸入木材が急増した60年代には、海側の土地の埋め立てが進み、海からの距離もどんどん遠くなってしまう。その結果、1981年には全ての貯木場が、東京湾に面した江東区南部の新木場へと移転した。

貯木池は埋め立てられ、東京都・木場公園へと姿を変えた。「山水のながめ」とはいかないが、緑豊かな広場や植物園などの景観は美しく、テニスコートなどのスポーツ施設や、東京都現代美術館といった文化施設も充実している

24ヘクタールを超える公園は、中央に見える木場公園大橋の先にも広がっている
24ヘクタールを超える公園は、中央に見える木場公園大橋の先にも広がっている

現在の新木場。フェンスに囲まれた所が現在の第1貯木場。撮影時、材木は浮かんでいなかった
現在の新木場。フェンスに囲まれた所が第1貯木場。撮影時、材木は浮かんでいなかった

浮世写真家 喜千也「名所江戸百景」:広重目線で眺めた東京の今
「名所江戸百景」は、ゴッホやモネなどに影響を与たことで知られる浮世絵師・歌川広重(うたがわ・ひろしげ)の傑作シリーズ。 安政3年(1856年)から5年にかけて、最晩年の広重が四季折々の江戸の風景を描いた。大胆な構図、高所からの見下ろしたような鳥瞰(ちょうかん)、鮮やかな色彩などを用いて生み出された独創的な絵は、世界的に高い評価を得ている。その名所の数々を、浮世絵と同じ場所、同じ季節、同じアングルで、現代の東京として切り取ろうと試みているのが、浮世写真家を名乗る喜千也氏。この連載では、彼のアート作品と古地図の知識、江戸雑学によって、東京と江戸の名所を巡って行く。

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