『深川木場』:浮世写真家 喜千也の「名所江戸百景」第103回
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なぜ大雪の木場で、筏づくりに励んだのか?
江戸時代の建物は、ほぼ全てが木造のため、大量の材木を貯蔵しておく必要があった。江戸の町の貯木場として知られるのが、深川・富岡八幡宮の東に広がっていた「木場」である。
幕末頃の地図を見ると、現在の江東区・木場公園と東京メトロ東西線・木場駅一帯が、直線の水路で区分けされている。
当時の材木は、河川を利用して輸送し、水に漬けてから乾燥させた。地図には「◯◯ヤ(屋) 木ハ(木場)」と屋号が記され、四角い島が並んでいるように見えるが、それぞれの区画の中心部には大きな池(水中貯木場)が設けてある。「土場」と呼ばれる陸地は区画の周辺部だけで、池は水路につながり、筏に組んだ材木を入出荷していたという。
つまり今回の絵は、どこかの区画の貯木池を描いたもの。木場の水路だとする解説も散見されるが、それは間違いの可能性が高い。そして、本来であれば殺風景でありそうな貯木池に、風流な景色が広がっていたのにも理由がある。
江戸時代の材木商というと、紀伊国屋文左衛門(紀文)を思い浮かべる人も多いだろう。謎が多く、架空の人物とする学者もいるが、一般的には幕府要人への贈賄で御用商人となり、巨万の富を得たとされている。紀文には豪快なエピソードが多く、吉原遊郭を丸ごと貸し切って遊興したという逸話まで残る。これは、役人を接待したとも考えられるが、財力を見せつけることで幕府を信用させると同時に、江戸っ子の人気を得るためのパフォーマンスだったという説もある。
紀文は木場の貯木場を焼失して廃業したそうだが、大手の材木商は江戸でも有数の豪商として繁栄を続けた。彼らも紀文同様に世間の目を気にし、「野暮(やぼ)」「悪趣味」「守銭奴」といった悪評が立たぬよう、文化人とも交流し、風流人好みの景観を貯木場に造り上げていたそうだ。広重は『絵本江戸土産』で、同じ深川木場の雪景色を描き、「おのおの山水のながめありて風流の地と称せり」と書き添えている。
名所江戸百景と絵本江戸土産を見比べると、縦と横の構図以外にも大きな違いがある。それは、蓑笠(みのかさ)をかぶった川並鳶(かわなみとび)の姿だ。江戸百では、雪の日にもかかわらず、水上で2人の鳶が筏を組み、材木を運び出そうとしている。
絵本江戸土産の4年後の1855(安政2)年、江戸を大地震が襲い、多くの建物が倒壊、焼失した。今回の絵が摺(す)られたのは、その翌年で、復興に向けた建設ラッシュの最中である。木材の需要が一気に高まり、供給が追いつかずに価格も急騰。江戸はウッドショックの状況で、材木問屋は商品の確保や出荷で、てんてこ舞いだっただろう。
川並鳶は主人が約束した出荷分をこなすため、文句を言いながら材木を操っていたのだろうか。もしくは復興のため、雪などお構いなしに仕事に励んでいたかもしれない。一見、静かな風景画だが、2枚の絵を見比べると、その時代ならではの状況を伝えようという、広重のジャーナリスティックな視線が浮き彫りになる。
現在の木場は、一部の水路を残して埋め立てられ、水中貯木場は一切残っていない。広いエリアなので何度もロケハンへ出掛け、撮影場所に目星をつけて、雪が降るのを待った。2018年1月、深々と降る雪の中、木場公園の東に隣接する仙台堀川公園へ向かうと、思い描いた通りの構図がファインダー内に広がった。
●関連情報
江戸幕府が開かれた当初、材木商と貯木場は江戸橋南詰付近の材木町(現・日本橋1丁目の首都高速・都心環状線沿い)などに集まっていたという。
3代将軍・家光の時代になると手狭になり、隅田川の東岸に新設された貯木場へと移転。さらに明暦の大火(1657年)後に、深川一帯の開発が進み、5代将軍・綱吉の時代に新大橋や永代橋が架かると、深川の富岡八幡宮周辺の人口が爆発的に増加。木材需要も急増したことで、1701(元禄14)年に八幡宮の東側に大規模な木場が新設された。
この深川木場は、十分な広さを確保しており、海辺からも近い。小名木川や竪川ともつながる大横川にも面しているので、隅田川だけでなく、中川や江戸川からの輸送も可能となり、木場の繁栄は明治以降も続いた。
今回の絵の舞台・水中貯木場だが、木材が腐るのではないかと疑問を持つ人もいるだろう。水中貯木は、運搬時の利便性が理由の一つだが、別の目的もあるので紹介したい。
第92回『佃しま住吉の祭』で紹介したとおり、木を水面下の土中に埋めれば、空気が遮断されて腐敗を防げるのだが、水に浮かべるだけでは確かに腐る。しかし、外側から徐々に腐り始めるので、太い原木が数カ月で使い物にならなくなることはない。
スギやヒノキの原木は皮だけ剥いで丸太で使うこともあるが、大半は角材や板に製材する。木には中心部の心材と、外側の辺材(色の薄い部分)があり、乾燥による収縮率が違う。辺材の方が収縮が大きく、原木をそのまま放置して自然乾燥させると、ヒビ割れしてしまうことが多い。
そこで、経験から生み出されたのが水中乾燥である。水につけておくことで収縮率の差が小さくなり、割れたり、反ったりしにくくなる。さらに、水中で樹液や不純物が落ちるので、水から出した後の乾燥は、自然乾燥より速いというメリットもあるようだ。近年の建築業界では、主に修正材や圧縮木材などを使用するが、一部では水中貯木による乾燥方法も見直されているらしい。
深川の木場は、太平洋戦争後も新しい設備を導入しながら存続した。しかし、輸入木材が急増した60年代には、海側の土地の埋め立てが進み、海からの距離もどんどん遠くなってしまう。その結果、1981年には全ての貯木場が、東京湾に面した江東区南部の新木場へと移転した。
貯木池は埋め立てられ、東京都・木場公園へと姿を変えた。「山水のながめ」とはいかないが、緑豊かな広場や植物園などの景観は美しく、テニスコートなどのスポーツ施設や、東京都現代美術館といった文化施設も充実している