『愛宕下藪小路』:浮世写真家 喜千也の「名所江戸百景」第102回

歴史

歌川広重『名所江戸百景』では第112景となる「愛宕下薮小路(あたごした やぶこうじ)」。虎之御門付近の大名屋敷街にあった名所を描いた冬の1枚である。

静けさを感じさせる虎ノ門ヒルズ近くの雪景色

愛宕下といえば、今も昔も「出世の石段」で知られる愛宕神社(港区愛宕)の東側を通る道を指す。広重の絵では左下から奥へと延びる道で、中央に見える赤い門は愛宕神社と別当・円福寺の総門だ。さらに進めば、芝・増上寺に突き当たる。近景の竹やぶの手前を右に折れたところが、絵には描かれていない「藪小路」となる。

現在でいえば、広重は愛宕下通り(都道301号)の「西新橋交番前」交差点から、西の桜田通り(国道1号)へとつながる道の入り口に立っている。つまり、藪小路は虎ノ門ヒルズ・ビジネスタワー(港区虎ノ門1丁目)の北側の通りに当たる。虎ノ門を訪れたことがある人なら、江戸風情を感じさせるそば屋「虎ノ門 大坂屋 砂場」横の道といった方がピンと来るかもしれない。

『安政改正御江戸大絵図』(1858国会図書館蔵)から、虎の御門から増上寺までを切り抜いた。愛宕下通りを紫に、藪小路を緑に色付けしている。愛宕通りの左側には、桜川が流れていた
『安政改正御江戸大絵図』(1858年刊、国会図書館蔵)から、虎之御門から増上寺までを切り抜いた。愛宕下通りを紫に、藪小路を緑に色付けしている。愛宕通りの左側には、桜川が流れていた

この辺りは虎之御門外の武家屋敷街で、藪小路はちょっとした名所だったらしく、この絵の20年ほど前に刊行された「江戸名所図会」にも登場する。「加藤候の邸(やしき)の北の通りをいい、裏門の傍らに少しばかりの竹叢(ちくそう、竹やぶの意味)があったからそう呼ばれた」といった感じで説明されるが、由来については「詳(つまびらか)ならず」と記されている。

屋敷の北東角に位置する竹やぶは、「鬼門なので、先祖・加藤清正の虎退治にちなみ、竹を植えた」とする説が知られている。虎は象の群れから逃れるため、竹やぶを安息の地としたとの言い伝えから、虎の屏風絵や虎退治の武者絵の背景には竹林が描かれることが多い。そこから、このような説が出てきたのだろうが、地図に載る「加藤ノト」は、能登守・加藤明軌(1858年当時)のこと。豊臣秀吉の子飼い、加藤左馬之助(嘉明)を祖とする近江水口(みなくち)藩主である。共に秀吉に仕えた加藤家だが、清正と左馬之助は兄弟でも親戚でもないので、間違いであろう。

加藤ノトの屋敷の南側には「サンサイコウジ」とある。江戸時代初期、この場所に屋敷を構えていたのは、明智光秀の娘・ガラシャの夫として知られる肥後熊本藩主・細川忠興で、茶人としては「三斎」と名乗ったことに由来するのであろう。同時期に北側の道も名付けられたとすれば、細川家時代から竹やぶがあった可能性もある。

加藤清正家が断絶した後、熊本藩を引き継いだのが忠興だ。熊本城明け渡しの際、清正の位牌(いはい)を先頭に入城し、加藤家の家臣も多く召し抱えたことは有名である。清正に敬意を示した細川家だけに、虎之御門に近い屋敷の鬼門に、虎退治にちなむ竹やぶをつくったと考えた方が合点がいく。

江戸名所図会3巻(1834年頃刊 国会図書館蔵)の「薮小路」。竹やぶというより、生け垣といった感じだ。この付近が田畑だった頃、川沿いに数株の桜が植わっていたので「桜川」になったとの記載もある
江戸名所図会3巻(1834年頃刊 国会図書館蔵)の「薮小路」。竹やぶというより、生け垣といった感じだ。この付近が田畑だった頃、川沿いに数株の桜が植わっていたので「桜川」になったとの記載もある

雪が深々と降る日に、広重は薮小路の入り口の竹を枠として、南方向を描いている。愛宕下を流れていた桜川の濃紺、愛宕神社の総門の赤が、絵にアクセントを加えている。川の上を渡すように立つのは、加藤屋敷の表門脇の番小屋である。白くなった傘をさす人々が、足元を気にしながら愛宕神社方面へ歩いていく。飛び交うスズメたちは、積もった雪が突然「ガサッ」と落ちたのに驚いたのだろうか。そんな静けさが伝わってくる、情緒ある1枚である。

2018年1月の大雪の日、現地へと向かった。当時は、虎ノ門ヒルズ・ビジネスタワーの建設中で、広重が立っていた場所でカメラを構えると、工事用フェンスばかりが目立ってしまう。雪のせいで視界も悪く、直線の道しか目に入らない。少し南へ下ると、愛宕下通りのゆるいカーブや「愛宕神社下」の信号機が目に入ってきた。弧を描く自動車のわだちが、今は埋め立てられてしまった桜川のイメージと重なったので、シャッターを切り作品に仕上げた。

●関連情報

愛宕下通り、虎ノ門ヒルズ

この絵が描かれた頃の地図には、藪小路の周囲に大名屋敷が並んでいる。加藤屋敷の向かいは豊後国・日出(ひじ)藩の木下家、その左(西)隣には肥後国・人吉(ひとよし)藩の相良家がある。愛宕下通りを挟んだ反対側、絵の中に登場する長屋塀の屋敷は伊勢国・菰野(こもの)藩の土方家で、その右(東)側には豊後国・佐伯藩の毛利家や播磨国・小野藩の一柳家が見える。

加藤家も含め、いずれも豊臣家恩顧の外様大名で、3万石未満の小藩という共通点を持つ。木下家は、豊臣秀吉の正妻・高台院(北政所、おね、ねね)の兄である木下延俊を祖とする。土方家は、秀吉と秀頼に仕え、家康暗殺を企てたとされる土方雄久を先祖に持つなど、豊臣家との縁が深い藩ばかりだ。

そんな愛宕下通りは、将軍家菩提(ぼだい)寺・増上寺の御成門(おなりもん)までつながる道なので、「芝御成道」という呼称もあった。しかし、今回の絵では、土方屋敷の長屋塀に阻まれ、増上寺は全く見えない。描かれたのは安政の大獄(1858年)の前年末で、将軍継承問題などから武家の分断が激化し始めた頃だ。

実はこの頃、歌川国芳の弟子・芳虎が破門になっている。少し前に「織田がつき 羽柴がこねし 天下餅 座りしままに食うは 徳川」という落書が話題になったのだが、それを絵にして刑罰を受けていたのだ。露骨な体制批判の絵が描きづらい中、直参の武士だった広重が「外様中心の一橋派が、譜代が仕切る幕府の行く末を見えにくくする」といった暗喩をしているとも思えてくる。

虎之御門外の武家屋敷街は明治新政府に接収された後、東京中心部の町となり、表通りには商店や飲食店が立ち並び、裏手は高級住宅地となった。大坂屋「砂場」が今の場所に開業したのも、その頃である。関東大震災や戦災による被害は下町に比べて小さく、明治・大正の建物も多く残ったという。筆者が学生だった1980年代、表通りはオフィス街になっていたが、少し入ると大きな一軒家が数多くあった。

2014年に環状2号が開通し、超高層ビル・虎ノ門ヒルズ 森タワーが誕生すると、この辺りはすっかり様変わりした。20年にはビジネスタワーや虎ノ門ヒルズ駅も完成し、周辺ではいまだに多くの建設工事が続いている。この辺りで、幕末の香りを感じさせるのは愛宕神社と大坂屋「砂場」くらいになった。来たる22年は寅年なので、今回の絵に思いをはせながら、愛宕神社へ初詣に出掛けてみてはどうだろう。

ビル街にポツンと残る蕎麦屋「砂場」の左が「藪小路」と呼ばれていた道
ビル街にポツンと残る蕎麦屋「砂場」の左が、かつて「藪小路」と呼ばれていた道。竹藪があったのは、左端の街路樹あたりだろう

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