『鴻の台とね川風景』:浮世写真家 喜千也の「名所江戸百景」第97回
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家康が恐れたほど絶景の高台が、人気物語の舞台に
「鴻の台」とは現在の千葉県市川市の北西端、江戸川に面する「国府台(こうのだい)」のこと。京成本線「国府台」駅の北側、川沿いの緑豊かな高台・里見公園を中心とした地域で、対岸は東京の北小岩(江戸川区)である。利根川水系の江戸川は、広重の時代には銚子(ちょうし)と日本橋を結ぶ利根川水運の主要区間で、庶民は一緒くたに「とね川」と呼んでいた。
国府台の名は、古代に下総の国府(こう、こくふ)が置かれたのが由来。周辺には旧石器時代から古墳時代にかけての遺跡が点在しているので、先史時代から房総方面の中心地だったと推測される。
平安中期には平将門が国府を攻め落とし、平安末期には敗走していた源頼朝が、ここで兵を集めて鎌倉へ出陣した。戦国時代に太田道灌(どうかん)が国府台城を築き、弟にこれを守らせた。武蔵と下総の国境にあるため、16世紀には関東の足利氏や、有力武将の北条氏や上杉氏、里見氏、千葉氏、太田氏、などが入り乱れ、2度の国府台合戦が勃発した。
そんな歴史ある場所が、今ではあまり知られていないのには理由がある。第2次国府台合戦後に城を治めていた北条氏は、豊臣秀吉に敗れ、関東8カ国は徳川家康に与えられる。家康は、江戸の町を一望できる国府台を「防衛上危険な場所」と判断。すぐに廃城としたことで、下総の重要拠点だったことが徐々に忘れ去られていく。確かに家臣に預けて謀反を起こされたり、敵に乗っ取られたりしたら厄介だが、「眺望が良すぎる」のが理由で城が壊されるとは、平和な現代では理解しづらいエピソードである。
当然、江戸っ子には景勝地として知られていた。現在の国府台駅近くには、江戸と房総方面を結ぶ佐倉街道が通り、渡船場には関所が併設されていたので、東の玄関口的な地域と考えられていたようだ。江戸時代後期になると成田山参詣が流行し、佐倉街道沿いがにぎわいをみせると、国府台に立ち寄る人も増え始めた。
そして広重の時代、国府台の名を知らしめたのが『南総里見八犬伝』。曲亭(滝沢)馬琴が1814(文化11)年から、28年をかけて完成させた全98巻の長編伝奇小説だ。作品完結前から歌舞伎や浄瑠璃の題材となり、今回の絵が描かれる4年前には小説と同名の歌舞伎が初上演される。それが大ヒットしたことでクライマックスの舞台・国府台は、今でいう「聖地巡礼の地」となり、『名所江戸百景』でも外せない場所になったのだ。
広重は高台に立ち、川に突き出した断崖を左に配して、中央に帆船が浮かぶ江戸川、右端に冠雪した富士山を描いた。成田詣でのついでに訪れたのか、崖の上では男女と老人が遠くを眺めている。家康が危惧したように、富士の手前に江戸の町を一望できたはずだが、幕府施設を詳細に描くことが禁じられていたこともあり、江戸城を含む市街地を薄紅色の霞(かすみ)で隠している。
実際に里見公園付近で、今回の絵と同じように下流方向を望むと、富士山は全く見えない。むしろ富士山があるのは、向かってかなり右の上流方向で、方角的にはおかしな構図なのだ。そのため、「広重は国府台を訪れたことがないのでは?」と推測する浮世絵ファンもいるが、『絵本江戸土産』では筆者の写真と同じ方向に富士山を描いている。
絵本江戸土産の左ページに、右ページの富士山や霞の下にある江戸の町、水面の帆船を移動させてみると、名所江戸百景に近い構図となる。広重は眼下に広がるパノラマの魅力を、縦構図にギュッと凝縮したのではないだろうか。
2017年から、秋の晴天の日に何度も里見公園を訪れたが、なかなか富士山は拝めなかった。ようやく撮影できたのは2020年の秋。馬琴は晩年に視力を失い、息子の嫁に口述筆記を頼んで、南総里見八犬伝を完成させた。かつて訪れた国府台の地形を思い出しながら、クライマックスの合戦シーンを仕上げたのだ。馬琴の頭の中に浮かんだのは、広重が名所江戸百景で描いたような、雄大さを凝縮したような景色だったかもしれない。そんなことを考えながら、大きく育った雑木ややぶを崖に見立て、シャッターを切った。
●関連情報
国府台、里見八犬伝、里見氏
国府台城は、武蔵から下総にかけての勢力争いにおいて重要拠点で、『利根川東岸一覧』を見ると天然の堀と石垣を備えた要塞(ようさい)のようだったと分かる。さらに眺望も良いのだから、家康が「江戸の脅威になる」と考えたのはもっともだ。
国府台を一躍有名にした『南総里見八犬伝』。南総・安房国里見氏の伏姫(ふせひめ)が自害した際に、「仁・義・礼・智・忠・信・孝・悌」の文字が浮かぶ8つの珠(たま)が飛散する。やがて関八州の各地で、その珠の一つを持ち、名字に「犬」の文字、身体の一部に牡丹(ぼたん)の痣(あざ)のある若者たちが出会っていく。数々の苦難の末に集結した八犬士が、最後は里見氏を救うという物語である。水滸伝(すいこでん)に着想を得たという八犬士の超人的な活躍、三国志の赤壁の戦いをほうふつとさせる国府台を舞台とした関東大戦、里見氏が勝利する勧善懲悪のストーリーが、江戸っ子の心をつかんだ。
里見氏は実在した戦国大名だったため、八犬伝のエピソードはしばしば史実と混同される。国府台は「里見氏が勝利した地」と誤解されるが、2度の国府台合戦で、どちらも里見氏は北条氏に敗れている。
江戸時代初頭の里見氏は館山藩主で、関ヶ原の戦いの功労で常陸国鹿島の所領も与えられ、12万2000石の立派な大名だった。しかし、2代目藩主の忠義は、家康によって伯耆(ほうき、現在の鳥取県中西部)へ転封させられる。表向きは3万石の大名だが、実際には配流同然の処分だったという。
忠義は失意のうちに29歳の若さで病死。側室が産んだ男子3人は跡取りとして認められず、里見家は「後継者なし」で改易処分となってしまう。古くから江戸湾入り口の安房・館山を領地とし、海域を水軍で支配した外様大名を、家康は国府台城同様に「危険」と判断したのだろう。
忠義の死に際して8人の側近が殉死し、全員の戒名には「賢」の字が使われたことから、忠臣は「八賢士」とたたえられたという話が伝わっている。曲亭馬琴がこの忠臣たちをモデルにし、「賢」を同音の「犬」に変えて『南総里見八犬伝』を書いたとすれば、理不尽な目に遭い、お家断絶となった里見氏へのオマージュを感じる。
記憶のかなたに葬られようとしていた古戦場に「里見群亡の碑」が立ったのは、馬琴がこの長編を描き始めて15年後のこと。今では里見の名を冠した公園を散策すると、忘れられつつある歴史を掘り起こすことの大切さが伝わってくる。