『月の岬』:浮世写真家 喜千也の「名所江戸百景」第96回

歴史

歌川広重『名所江戸百景』では第82景となる「月の岬(つきのみさき)」。品川宿の廓(くるわ)の座敷から、江戸湾に浮かぶ満月を望んだ美しい1枚である。

幕末の妓楼での遊び方を伝える妖艶な作品

名所江戸百景では珍しく、町や河川などの地名がない題のため、現代人には場所が分かりづらい作品だ。「月の岬」はその名の通り、江戸湾に月が浮かぶと、海岸線と高台の稜線(りょうせん)が岬のように望める場所で、江戸っ子には月見の名所として知られていた。正確な場所には諸説あるが、大まかには現在の港区高輪から三田にかけての台地の一角を指すようだ。

広重は『絵本江戸土産』第2編の「同所(高輪)月の岬」で、JR「品川」駅の南にあった高台「八ツ山」越しの風景を紹介している。八ツ山は東海道の一番宿・品川宿の北の起点なので、今回の絵の座敷は品川宿北部「歩行新宿(かちしんしゅく)」にあった妓楼(ぎろう)のものだと推測できる。そのため、多くの研究者が品川宿で一番有名な大見世「相模屋(土蔵相模)」から描いたと解説しているが、八ツ山からは少し遠いため、筆者はもっと北側にあった別の妓楼ではないかと考えている。

広重著の『絵本江戸土産10編』のうち第2編(1851年頃刊、 国会図書館蔵)より「同所(高輪の光景)月の岬」。八ツ山の南から、高輪、芝浦の海岸線を望んでいる。月の岬が、海岸線なのか、八ツ山を指すのか定かではない
広重著の『絵本江戸土産10編』のうち第2編(1851年頃刊、 国会図書館蔵)より「同所(高輪の光景)月の岬」。八ツ山の南から、高輪、芝浦の海岸線を望んでいる。月の岬が、海岸線なのか、八ツ山を指すのか定かではない

窓の外では満月が高輪沖を照らし、飛翔する雁(がん)の編隊や停泊している無数の船のシルエットが美しい。それに対して、座敷の中は閑散としており、廊下には食器や酒器が雑然と置かれている。一見は­宴の後に思われるため、障子越しに映る遊女は、客の待つ部屋へと向かうために身支度を整え、芸者は帰り支度をしていると見る浮世絵ファンが多い。しかし、当時の廓での遊び方を考えると、ここからが本番ではないかと筆者は考えている。

現代の感覚では、こうした夜遊びは1人でコソコソと向かいそうだが、江戸時代には吉原にせよ岡場所にせよ、数人で連れ立って出掛けるのが一般的だった。まずは座敷で宴を開き、一盛り上がりした後に、別々に遊女の部屋へ行って楽しむのである。特に大見世と呼ばれる高級妓楼では、そのような遊び方が大切にされ、仲間同士の絆を深める社交場のような役割も担っていたのだ。

絵の座敷の奥をよく見ると、手を付けていないマグロの刺し身と、扇子や手ぬぐい、きせる入れとたばこ盆がある。これは、宴会を終えた団体客の幹事役のものだろう。身の回りのものを置いて帰るはずはないので、遊女をあてがった仲間を見送りがてら、一時的に席を外していると思われる。この後、右の芸者の小唄でも聴きながら、追加注文した刺し身で一杯やり、締めに鰻重(うなじゅう)でも食べてから、左の遊女としけこもうという算段だと想像できる。

このような遊び方については、品川宿を舞台とした落語『居残り佐平次』にも出てくる。初代・春風亭柳枝(1813〜68)という人気噺(はなし)家の作といわれるので、この絵と同時代に誕生した可能性が高い。広重が居残り佐平次を知っていたかは定かでないが、遊びなれた当時の江戸っ子からは共感を得られる情景なのではないだろうか。広重が、窓の外に岬らしき海岸線を描かなかった代わりに、障子からはみ出した遊女の裾を岬に見立てたとすれば、落語の下げのようにしゃれた絵に思えてくる。

現在の品川宿辺りには、旧東海道沿いに歴史を感じさせる商店街が残る。当然妓楼はもうないが、ロケハンで「土蔵相模跡」がある区画の北端に、「居残り連」という飲食店を見付けた。居残り佐平次にも登場する鰻の名店「荒井家」が廃業した後、古い建物をリノベーションして創作料理を提供している。江戸時代には、その北隣に大見世の「島崎楼」があったので、広重はその座敷から『月の岬』を描いた可能性もある。オーナーシェフに頼んで、閉店後に2階の海側の窓をカメラに収めた。ビルに阻まれて月は望めなかったので、天王洲橋で運河を照らす満月の夜景を撮影し、作品に仕上げた。

●関連情報

飯盛旅籠と品川遊郭、居残り佐平次

岡場所(非公認の遊郭)としての品川宿については、幕府公認の遊郭・吉原のような史料はそれほど残っていない。その中で、最も有名な大見世といえば、外壁がなまこ塀の土蔵造りだったために「土蔵相模」と呼ばれた「相模屋」である。1860(安政7)年3月3日、「桜田門外の変」を起こした水戸浪士たちは、この見世から出発した。さらに、その3年後の12月12日には、長州藩の高杉晋作、伊藤博文らが、相模屋を出て「英国公使館焼き討ち事件」の現場へと向かった。こうした逸話が後世に知られるようになり、今でも「土蔵相模跡」の碑が北品川の旧東海道沿いに残っている。

そのため、今回の絵の座敷についても土蔵相模説が生まれるわけだが、広重の時代はそうした事件の少し前で、相模屋が一番人気の見世だったかどうかは不明である。歩行新宿は1722(享保7)年に品川宿へと組み込まれた新しい歓楽街で、江戸中心地に近いために遊客が多く、飯盛旅籠(めしもりはたご、妓楼のこと)が立ち並んでいた。

鰻屋・荒井家の目の前にあった島崎楼も、歌舞伎「神明恵和合取組(かみのめぐみわごうのとりくみ)」、通称「め組の喧嘩」の舞台となった有名な大見世である。品川宿で唯一、舟を見世の桟橋に乗り付けて、そのまま入楼できることでも知られていた。相模家よりも八ツ山に近く、海沿いで眺めも良かったため、筆者は島崎楼説を推したい。

鰻の名店「荒井家」の建物をそのまま使った多国籍料理店「居残り連」。道を挟んだ右側の建物が、大見世の「島崎楼」があった場所だ
鰻の名店「荒井家」の建物をそのまま使った多国籍料理店「居残り連」。道を挟んだ右側の建物が、大見世の「島崎楼」があった場所だ

居残り佐平次の「居残り」とは、ついつい持ち金以上に遊びすぎて、見世に居残らざるをえなくなった遊客のことを言う。通常、支払いができない場合、客の家まで若い衆が付いて行って取り立てる「付き馬」という方法をとるのだが、地方から来た客には手紙を出して送金してもらう。この場合、金が届くまで布団部屋などで寝かせて、見世に「居残り」させるのだ。

佐平次は「安い料金で豪遊しよう」と、仲間を募って品川宿に繰り出す。集めた金では到底足りず、幹事役の佐平次は自ら居残りとなる。器用で気が利くため、遊女や他の遊客からも重宝がられるが、仕事を取られてしまった見世の若い衆が主人に苦情を申し立てる。しかし、主人は佐平次の身の上話に同情し、逆に大金を渡して帰してしまうのだ。

跡を付けた若い衆が、上機嫌の佐平次に声を掛けると、「今日はたんまり金をもらったからな。俺は、中(吉原)ではちょっと知られた、居残りを商売にしてる佐平次だ。大見世の楼主だったら覚えておけと、主人に伝えろ」と言い放つ。若い衆が戻って知らせると、主人が「人のことを、おこわにかけやがって(だましやがって)」と悔しがる。若い衆が「へぇ、旦那のお髪(ぐし)がごま塩(白髪交じり)ですから」という下げとなる。

「おこわ(赤飯)にかける=一杯くわす」、「赤飯にごま塩」という落ちが今の世では通じにくいので、高座で演じられることは多くない。でも、佐平次のテンポの良い話っぷりや、忘れられつつある廓遊びの雰囲気が楽しめる噺として貴重である。

明治になって伝馬制、宿駅制が廃止されると、品川宿は品川遊廓へと引き継がれ、売春防止法が施行された1958(昭和33)年までにぎわいが続いた。商店街も一時は衰退したが、80年代後半から歴史的資産を生かした地域活性化が進められている。毎年9月には「しながわ宿場まつり」が開催され、花魁(おいらん)道中や江戸風俗行列は例年多くの見物客を集める(コロナ禍で2020、21年は中止)。今回の絵は、年表に載るような史実だけでなく、忘れられつつある庶民の日常的な風俗・文化を知ることで、歴史を学ぶことがより楽しくなると教えてくれた。この絵を思い出しながら、品川の宿場町を、幕末の遊客気分で闊歩(かっぽ)してみてはどうだろう。

天王洲橋から望む満月
天王洲橋から望む満月

浮世写真家 喜千也「名所江戸百景」:広重目線で眺めた東京の今
「名所江戸百景」は、ゴッホやモネなどに影響を与たことで知られる浮世絵師・歌川広重(うたがわ・ひろしげ)の傑作シリーズ。 安政3年(1856年)から5年にかけて、最晩年の広重が四季折々の江戸の風景を描いた。大胆な構図、高所からの見下ろしたような鳥瞰(ちょうかん)、鮮やかな色彩などを用いて生み出された独創的な絵は、世界的に高い評価を得ている。その名所の数々を、浮世絵と同じ場所、同じ季節、同じアングルで、現代の東京として切り取ろうと試みているのが、浮世写真家を名乗る喜千也氏。この連載では、彼のアート作品と古地図の知識、江戸雑学によって、東京と江戸の名所を巡って行く。

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