『木母寺内川御前栽畑』:浮世写真家 喜千也の「名所江戸百景」第95回

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歌川広重『名所江戸百景』では第92景となる「木母寺内川御前栽畑(もくぼじ うちがわ ごぜんさいばた)」。隅田川と綾瀬川が合流する辺りにある、江戸っ子に人気だった寺院の境内を描いた一枚である。

能や歌舞伎の人気演目の舞台をしっとりと描写

「木母寺」は隅田川の東岸、墨田区堤通2丁目にある天台宗寺院。平安時代中期の創建と伝わり、江戸時代には参拝客でにぎわう江戸郊外の名所であった。「木母」は梅の異名であり、2文字を合わせて1文字にすると「梅」の異体字「栂」になる。隅田川沿いで「梅」といえば、能や浄瑠璃、歌舞伎など古典芸能好きの人ならばピンとくるだろう。人気演目「隅田川物」の元ネタ「梅若(うめわか)伝説」に由縁を持つため、江戸っ子たちはこぞって木母寺を訪れたのだ。

梅若伝説は室町時代に、能の演目「隅田川」の題材となり、その悲劇が広く知れ渡った。貴族の家に生まれた梅若丸は、父親を早くに亡くしたために比叡山へ預けられる。聡明な稚児として京中で評判となるが、寺同士のいさかいごとに巻き込まれ、逃げている最中に人買いにさらわれてしまう。京から東国まで連れ回されたことで、疲れ果てた梅若丸は、武蔵と下総の国境、隅田川のほとりで病に倒れる。「たづね来て 問はばこたへよ都鳥 すみだの河原の露ときへぬと(母が訪ねてきたら ユリカモメよ伝えておくれ あなたの息子は隅田の河原で息絶えたと)」という歌を残し、12歳の若さでこの世を去る。そこに居合わせた高僧が哀れみ、亡きがらを埋めて塚を築き、その上に柳を植えて弔った。

ちょうど1年後、狂女に身をやつして梅若丸を探し続けていた母親が、隅田川までたどり着くと、対岸で法要が営まれている。それが息子の一周忌だと知った母が、夜を徹して念仏を唱えると、梅若丸の亡霊が姿を現し、悲しみの対面を果たすのだった。朝になると梅若丸は姿を消し、草むした塚だけが残された。

そうした伝説にまつわる梅若塚の傍らに、念仏堂が976(貞元元)年に建立され、木母寺の起源となったという。木母寺の境内には「内川」という呼び名の入り江があり、徳川3代将軍・家光の時代に、その北側に将軍や貴人が鷹狩りなどで訪れた際に休息する「隅田川御殿」が建てられる。4代・家綱は御殿を改築し、隣接地には野菜を育てるための「御前栽畑」も造成。木母寺は将軍家とゆかりの深い寺となった。

『安政改正御江戸大絵図』(1858年、国会図書館蔵)より、綾瀬川が隅田川に流れ込むあたりから真崎の渡までを切り抜いた。木母寺境内には、「ムメワカヅカ」「水ジン」の文字が読み取れる。御殿跡から墨田村にかけては、「鐘ヶ淵」とも呼ばれる地域だった
『安政改正御江戸大絵図』(1858年、国会図書館蔵)より、綾瀬川が隅田川に流れ込むあたりから真崎の渡までを切り抜いた。木母寺境内には、「ムメワカヅカ」「水ジン」の文字が読み取れる。御殿跡から墨田村にかけては、「鐘ヶ淵」とも呼ばれる地域だった

庶民の芸能文化が発展した元禄時代以降、梅若伝説は謡曲や浄瑠璃、歌舞伎などで数々のアレンジが施され、「隅田川物」という人気ジャンルとなった。広重が今回の作品を描いた1857(安政4)年の3年前にも、隅田川物の歌舞伎『都鳥廓白浪(みやこどり くるわ しらなみ)』の初演が人気を博した。この頃には隅田川御殿はもうなく、跡地になっており、御前裁畑も風光明媚(めいび)な松林として知られていたそうだ。

広重は内川を中央、左に御前裁畑の松林、右に木母寺境内にあった料亭を配している。この店は八頭芋としじみ料理が名物の「植半」で、風流人が好んで宴を開いたそうだ。木母寺の東側には桜並木で有名な墨堤が通っているので、梅若丸の命日とされる旧暦3月15日には、花見も兼ねて多くの人が集まった。しかし広重は、向島あたりから来た芸者が屋根船を横付けにし、宴席へと向かう様子を描き、しっとりとした秋の情景に仕上げている。

木母寺と梅若塚は、都営白鬚(しらひげ)東アパートなど「白髭東地区防災拠点」建設のため、1976(昭和51)年に東白鬚公園の隅田川寄りに移築された。川沿いには首都高速道路が通り、内川も埋め立てられたので、元絵の面影は全くない。しかし門前には花壇があり、地域の人たちが育てた四季折々の花が楽しめる。広重が描いたと同じ秋の日の午後、北の方角へカメラを向け、御前栽畑ならぬ花畑を左に配してシャッターを切った。

関連情報

木母寺、梅若伝説

この辺りは平安時代から戦国時代まで、奥州へと向かう街道の渡船場で、人も多く住んでいたようだ。鎌倉時代初期には、源頼朝が奥州遠征の道中に梅若塚に立ち寄り、室町中期には太田道灌が塚を改修したと伝わっている。

家康の時代から、将軍が鷹狩りの際に木母寺へ立ち寄るようになり、後に境内に隅田川御殿が築かれた。特に鷹狩りを愛した8代・吉宗は、墨堤の桜並木を整備したことでも知られるが、木母寺を北の起点としたのは、そうしたつながりがあったからであろう。江戸時代には、南隣の水神(現・隅田川神社)と共に信奉を集め、花見時季と重なる梅若忌は特ににぎわったという。

広重著『絵本江戸土産10編』のうち第1編(1850年頃刊、 国会図書館蔵)より「木母寺料理屋御前栽畑内川」。名所江戸百景でより少し前に、冬の雪景を描いている
広重著『絵本江戸土産10編』のうち第1編(1850年頃刊、 国会図書館蔵)より「木母寺料理屋御前栽畑内川」。名所江戸百景でより少し前に、冬の雪景を描いている

明治時代の廃仏毀釈(きしゃく)によって、一時は梅若神社となったが、1889(明治22)年に伊藤博文や渋沢栄一など政財界の有力者たちの支援で、寺院として再興した。木母寺の住職によると、現在は旧暦3月15日の気候に近い4月15日を梅若忌とし、謡曲「隅田川」を奉納する。例年、能楽関係者や近隣住民でにぎわうが、2020、21年はコロナ禍で中止になった。

かつての梅若塚は、土を盛った上に柳が植えられていたが、現在地に移転した際に石積みの塚とし、傍らに柳を植えたという。周囲には「梅若」の名が付く公園や学校、施設があるにもかかわらず、近頃は地域住民でも梅若伝説を知る人は少ないという。住職は能楽師とともに近隣の学校へ出向き、紙芝居を使って、子どもたちに伝承しているという。

木母寺のモダンな境内で梅若伝説に思いをはせると、世の変化の大きさを感じつつも、親子の情の普遍性に改めて気付く。江戸っ子たちの心をつかんだ悲劇の舞台に、一度訪れてみてはいかがだろう。

御前栽畑のあった辺りから撮影した現在の木母寺。地震や火災、水害に強そうな、防災拠点の寺院ということがよく分かる
御前栽畑のあった辺りから撮影した現在の木母寺。地震や火災、水害に強そうな、防災拠点の寺院ということがよく分かる

移築後の梅若塚と梅若堂。ガラス張りの建物内にある堂は、梅若丸の母・妙亀大明神が建てた念仏堂が起源だという
移築後の梅若塚と梅若堂。ガラス張りの建物内にある堂は、梅若丸の母・妙亀大明神が建てた念仏堂が起源だという

現在の梅若塚。左に柳の木が植えられている
現在の梅若塚。左には柳の木が植えられている

浮世写真家 喜千也「名所江戸百景」:広重目線で眺めた東京の今
「名所江戸百景」は、ゴッホやモネなどに影響を与たことで知られる浮世絵師・歌川広重(うたがわ・ひろしげ)の傑作シリーズ。 安政3年(1856年)から5年にかけて、最晩年の広重が四季折々の江戸の風景を描いた。大胆な構図、高所からの見下ろしたような鳥瞰(ちょうかん)、鮮やかな色彩などを用いて生み出された独創的な絵は、世界的に高い評価を得ている。その名所の数々を、浮世絵と同じ場所、同じ季節、同じアングルで、現代の東京として切り取ろうと試みているのが、浮世写真家を名乗る喜千也氏。この連載では、彼のアート作品と古地図の知識、江戸雑学によって、東京と江戸の名所を巡って行く。

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