『品川すさき』:浮世写真家 喜千也の「名所江戸百景」第94回
Guideto Japan
歴史 旅- English
- 日本語
- 简体字
- 繁體字
- Français
- Español
- العربية
- Русский
完成していたはずの台場を、なぜ広重は描かなかったのか
JRや京浜急行電鉄の「品川」駅は、品川区ではなく港区高輪にあるため、しばしば混乱を生む。さらに京急で羽田空港や横浜方面へと向かうと、一つ目の駅は「北品川」。品川駅の南に位置するのに「北」が付くので、「反対方向に乗ってしまったか?」と戸惑う人もいる。
品川は元来、目黒川の河口付近一帯を指す地名で、江戸湾に面する「品川湊(みなと)」は古くから海運の要所であった。江戸時代に入り、日本橋から東海道が整備されると、一番宿が置かれたことで大いににぎわう。
品川宿は当初、目黒川を中心に北側の「北品川宿」、南側の「南品川宿」に分けられた。北は目黒川から御殿山の東にかけて、南は「品川寺(ほんせんじ)」付近までの街道沿いに発展。さらに北品川宿の北、「八ツ山」近くまで茶屋街が伸びていき、その地域は「新宿(しんしゅく)」や「品川新宿」、「歩行(かち)新宿」などと呼ばれた。新宿も1722(享保7)年、正式に品川宿へと組み込まれ、約2キロに及ぶ繁華街となった。
1873(明治5)年には、薩州高輪屋敷前の海を埋め立てて駅を建造。東海道の宿駅にちなみ、品川駅と命名した。京急の北品川駅は、かつての品川宿北部、新宿辺りに位置するわけだが、かなりの歴史好きでないと理解できないであろう。
「品川」の地名の由来には諸説あるが、目黒川河口付近が大きく曲がっていたため、「しなり川」と呼ばれていたのが変化したという説が有名だ。現在の品川の海側は広大な範囲が埋め立てられ、目黒川河口も真っ直ぐ天王洲運河に注いでいるが、江戸時代には北西に向かって大きくカーブし、海側には半島のような砂州が広がっていた。その先端が、今回の絵の舞台である。
元々、この砂州に人は住んでいなかったが、徳川3代将軍・家光の時代の1636(寛永3)年、品川・東海寺の沢庵和尚が洲崎弁財天を創建したと伝わる。その後、漁師が住むようになり、「南品川猟師町」や「洲崎」と呼ばれるようになった。深川にも洲崎弁財天を祀(まつ)った神社があり、一帯は洲崎という地名であったが、5代・綱吉時代の創建なので品川の方が歴史は長い。江戸時代中期には、南品川宿の名主・利田(かがた)吉左衛門が埋め立てを進め、洲崎弁天も先端へと遷座。そのため、砂州の先端部分は「利田新地」とも呼ばれたそうだ。
広重は新宿から、洲崎弁天方向を描いている。江戸湾の右奥に水平線は見えるが、左端から題箋の下まで対岸の陸地がつながっているので、地図で検証してみた。すると、左は隅田川河口の鉄砲洲や佃島あたりから、右端は中川河口(現在の荒川河口)付近までと判明した。つまり、広重が品川洲崎越しに、対岸中央の深川洲崎を望んでいるという、シャレた構図なのだ。海が広すぎるために絵が間延びしそうだが、洋上に帆船を並べることで変化と奥行き感を加えている。
ただ、この絵は1856(安政3)年4月に摺(す)られたものなので、不可解な点がある。1854年末に完成している、品川洲崎と陸続きの御殿山下台場が見当たらないのだ。黒船来航により、幕府が大急ぎで建造した品川台場の一つで、第四台場と第五台場と思われる石垣の一部は沖に描かれているが、洲崎弁天のすぐ後方に広がっているはずの御殿山下台場は影も形もない。
この時代の浮世絵では、幕府施設を詳細に描くことを禁じられており、広重も霞(かすみ)や雨でぼかすことが多い。とはいえ、全く描かないのは珍しい。第33回『品川御殿やま』でも書いたように、広重は御殿山を切り崩したことに大変心を痛めており、その土砂によって造られた品川台場に対しても、複雑な感情を持っていたと考えられる。高く積まれた石垣の内側に、当時の最新式大砲が備えられ、兵舎や武器庫が並ぶ台場は、何とも物騒な光景であっただろう。広重は御殿山下台場を描かないことで、江戸湾本来の美しさを見せたかったと想像できる。
現在、品川洲崎の周辺は、完全に埋め立てられている。江戸時代の目黒川河口だった八ツ山通りに架かる歩道橋の上から、かつての洲崎弁天である「利田神社」の祠を同じ位置に配してシャッターを切った。海だった場所にはビルが立ち並び、水辺の風景は一切望めないが、青空と白い雲のコントラストに、広重が描いた江戸湾の雰囲気を感じたので作品にした。
●関連情報
品川宿、洲崎弁財天
品川宿や内藤新宿のような街道の一番宿は、江戸を発つ旅人が宿泊することは少ない。それでもにぎわったのは、いずれも非公認の遊里「岡場所」という側面による。城南地区の江戸っ子にとって、幕府公認の遊廓・吉原は遠いため、近場の品川宿は絶好の遊び場だったのであろう。近隣には薩州・島津家、松平トサ・山内家、松平ムツ・伊達家など大名の下屋敷が多く、その藩士たちも品川宿に繰り出した。
非公認といっても、幕府は黙認していたようで、品川宿では「飯盛女(めしもりおんな)」と呼ばれる遊女は、500人までと定められていた。ただ、この取り決めは有名無実になっており、広重の時代には約2000人いたという説もある。吉原の遊女でも3000人までとされていたので、それに次ぐ規模の遊里であったのだ。
広重が今回の絵を描いた品川新宿は、茶屋街だった時代、宿泊施設の建築は禁じられていた。当時の宿場は、伝馬や歩行人足といった物流機能を提供することで、旅籠(はたご)の経営が許されたからだ。後に歩行人足を負担する約束をしたことで、宿場の許可をもらい、「歩行新宿」と呼ばれるようになる。品川宿の中でも最も江戸中心地側にあるため、「飯盛旅籠」という妓楼が数多く誕生した。絵の左下に登場するような座敷では、海を眺めながらの豪勢な宴会が連日のように催されていたようだ。
洲崎弁財天は、明治期の神仏分離政策によって、祭神をインドの神である弁財天から、日本神話に登場する水の神・市杵島姫命(イチキシマヒメ)に変え、利田(かがた)神社と名前を改めている。
小さな神社だが、境内には「鯨塚」という珍しい石碑がある。1798(寛政10)年、品川沖に長さ16.5メートル、体高2メートルのクジラが現れ、洲崎の漁師が捕獲。時の将軍・11代家斉も上覧するほど、大騒ぎになったそうだ。そのクジラの骨を供養した塚は、東京に唯一現存する鯨碑といわれている。
旧東海道には現在、目黒川の北側に北品川商店街、南には青物横丁商店街などがある。道幅は江戸時代と同じ、5間(約9メートル)のままだ。沿道には宿場時代から続く神社仏閣や史跡があり、幕末創業の商店なども残っている。旧東海道のさらに南の立会川には、土佐山内家下屋敷があった。品川宿で遊んだ坂本龍馬が、何度も行き来した街道を散策し、幕末のにぎわいを思い浮かべるのも一興だろう。