『逆井のわたし』:浮世写真家 喜千也の「名所江戸百景」第91回
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風流人が好んだ中川沿いに広がるのどかな風景
逆井の渡しは、江戸の東端を流れる中川にあった渡し舟。現在、新逆井橋が架る辺りで、西岸は江東区の亀戸と大島の境目で、東岸の江戸川区小松川との間を往来していた。車を運転する人ならば、橋の真上を通る首都高速7号小松川線が、旧中川と交差する場所といった方がイメージしやすいかもしれない。
江戸の東には、「大川」の名で親しまれた隅田川、「利根川」と呼ばれた旧江戸川という2つの重要河川があった。中川は、その間を流れていることから名付けられたという。当時は1本の橋もなく、対岸に行く場合には渡船を利用した。『名所江戸百景』には中川沿いの風景が、本作以外にも2枚登場する。水路の関所・船番所が置かれた小名木川河口の『中川口』と、水戸街道と佐倉街道が分岐する『にい宿のわたし』で、いずれも江戸と下総国を結ぶ交通の要所である。逆井の渡しは中川口の少し上流、小名木川の北を平行に流れる堅川(たてかわ)が中川と交わる地点にあり、東岸は佐倉街道の起点となっていた。
江戸時代後期になると、庶民も盛んに旅へ出るようになる。近場の行き先として、特に江戸っ子から人気だったのが「成田詣で」。人気歌舞伎役者の初代・市川團十郎(1660-1704)は、成田山新勝寺で子宝祈願をし、無事長男を授かったことから深く信奉した。歌舞伎の演目の題材になり、歴代團十郎が参詣を続けたため、子宝と商売繁盛のご利益が広く知れ渡ったのだ。
その道中にあるため、江戸のはずれにある中川沿いにまで、庶民になじみの風景が誕生する。佐倉街道は本来、下総・佐倉城へと至る道であったが、成田参詣の旅人にとっては通過点にすぎない。今回の絵が描かれた幕末頃、この街道を庶民は「成田道」と呼んでいたそうだ。
広重は、中川西岸の亀戸側から、対岸を遠めに望んでいる。当初、逆井の渡しは逆井村に東岸の渡船場があったが、後に少し下流の西小松川村へと移動した。そのため、中央右奥のかやぶき屋根の集落は西小松川村で、川面には多くの客を乗せた渡し船が行き交っている。霞(かすみ)のかかった先に見える山は、南の方角なので房総半島のものだろう。
最も印象的なのは手前に大きく描かれた白鷺(シラサギ)だ。葦(ヨシ)が茂る川岸の浅瀬は、小魚やカエル、ザリガニなどが多くすむ格好の餌場なので、5羽も集まっている。日本にいる白鷺は、ダイサギ、チュウサギ、コサギの3種類であるが、広重が描いたのは一番小さなコサギだろう。頭の後ろに突き出しいるのは、夏のコサギのみに見られる「冠羽(かんう)」という飾り羽根である。
しかし、コサギは体長60センチほどと小さい。岸辺の葦よりも背が低いはずだが、絵の中ではかなり大きく描かれている。広重は絵本江戸土産の中で、逆井の渡し周辺について、「耕地のありさま、菜園の体、風流好士の遊観なり」と記している。少し離れた上流から眺めて、成田参詣の旅人でにぎわう渡船場を小さく描き、コサギをクローズアップすることで、風流人たちが愛する自然豊かな土地を強調したかったのではないだろうか。
中川は現在、荒川放水路によって上流と分断され、下流部は荒川の支流「旧中川」として残っている。逆井の渡しがあった辺りは、親水公園のように整備され、水もきれいで小魚や水鳥が多く見られる。夏の日中に赴き、少し上流の亀小橋でコサギが現れるのを待つことにした。
上流からカワウが泳いできたので、違う鳥だと思いながらもシャッターを切ると、それを追ってコサギが1羽飛んで来た。カワウが川岸近くで水中にもぐると、小魚を蹴散らしてくれるので、おこぼれにありつこうという算段だ。しばらくの間、ファインダー内を飛び回ったり、岸辺で羽を休めたりしてくれたので、それらを重ねて作品に仕上げた。
●関連情報
逆井、小松川、首都高速7号小松川線、竪川
逆井の村名の由来は定かではない。諸説ある中に、満潮時にこの辺りまで海水が逆流するために名付けられたというものがある。撮影時にも、ボラが水面を飛び跳ね、ミズクラゲが浮いていたため、説得力が感じられた。海水と淡水が入り混じる汽水域は魚が豊富にいるため、それを狙う鳥たちも集まるのだろう。逆井の町名は1988(昭和63)年まで江戸川区で使用されていたが、その大部分は平井に統合された。
名の由来といえば、小松川は小松菜の発祥の地だ。鷹狩りの際に西小松川村に立ち寄った徳川将軍(5代綱吉説と8代吉宗説がある)が、名産品の青菜の味を気に入り、村の名を冠するように命じたと伝わる。こうした話からも、当時の逆井の渡し周辺は、実り多き川辺の田園地帯で、風流人が愛するような情景が広がっていたことが想像できる。
首都高速はカーブが多くて運転しづらいというイメージだが、小松川線は直線が約5キロも続く珍しい区間だ。これは、江戸時代の町づくりの名残である。最初に隅田川と中川をつないだ運河は、家康の江戸入府直後、下総国行徳から塩を運ぶために造られた小名木川。最短距離にするために、ほぼ東西を直線に開削した。当初江戸の市街地は、隅田川の西側に築かれたが、人口増加とともに手狭となった。限界に達したころ、明暦の大火(1657)で江戸全体が焼け野原となり、新たな町づくりとして隅田川東岸へと市街地を拡張し始める。そんな時代、小名木川と並行して築かれたのが竪川だ。当時の地図は西側を上にしたものが多かったため、「タテに流れる川」という意の命名だという。
隅田川東岸の南部、現在の江東区には砂州や湿地が広がっていたので、埋め立てながら町を広げ、中川沿いには多くの新田が開発された。竪川開削は物流利用の目的もあったが、埋め立てに使う土砂の供給にも一役買ったのではないかと思われる。運河沿いには竪川通りという道ができ、周辺には町家が立ち並ぶ。時代が下り、成田参詣がブームとなると、舟であれ、徒歩であれ、両国界隈(かいわい)から成田への最短ルートとして利用されたのだ。
明治以降は運河としての機能が薄れ、戦後には水質悪化も深刻となる。1960年代から、江戸時代に築かれた堀や運河の上に首都高速道路が建設されるようになると、竪川も計画に組み込まれた。元来、下総方面への近道であったのだから当然といえる。京葉道路を経由して、成田空港へ至る路線として、首都高速7号小松川線が1971(昭和46)年に開通した。
小松川線を利用して成田空港に向かう際には、長い直線を進みながら、江戸っ子たちが成田詣でに向かう姿を想像してみてほしい。風流な景色で知られた旧中川辺りには、現在も新逆井橋の下流側には大島小松川公園が両岸に広がっており、のどかな雰囲気も味わえる。