『赤坂桐畑雨中夕けい』:浮世写真家 喜千也の「名所江戸百景」第90回

歴史

歌川広重『名所江戸百景』で最後に発行された「赤坂桐畑雨中夕けい(あかさか きりばたけ うちゅう ゆうけい)」。広重の病死後に跡目を継いだ2代目が、梅雨入り直後の赤坂見附の情景を見事に表現した1枚である。

2代目広重が襲名披露として描いた傑作

『名所江戸百景』は目録1枚を足して、合計120枚と数える場合と119枚だとする説がある。その理由となるのが今回の絵で、左側の朱色の落款(らっかん)には「二世 広重画」と記されている。

初代広重は1858(安政5)年9月に、この世を去った。『名所江戸百景』を手掛けている最中で、当時江戸で流行したコレラが死因だと伝わっている。人気シリーズだったこともあり、直後の10月に「市ヶ谷八幡」と「上野山した」「びくに橋雪中」、翌年6月には本作が追加された。没後すぐの3枚には「広重画」とあるのだが、初代の作品か、2代目が手掛けたものか、はたまた初代が残した下絵を2代目が仕上げたなど、研究者の間でたびたび論争となる。そして、唯一「二世」と明記される「赤坂桐畑雨中夕けい」に至っては、シリーズに数えるべきでないとの主張もあるのだ。

しかしながら、作品自体は見事で、“江戸百ファン”からの評価も高い。初代広重が残した第48景「赤坂桐畑」よりも、出来が良いとする批評家も少なくない。初代は近景の桐の幹を中央に配する独特の構図を用いたのに対し、2代目は師匠のもう一つの十八番「鳥瞰(ちょうかん、鳥のような目線)」によって、桐畑と溜池、その奥に赤坂御門へ向かう坂道を上る人々をシルエットで描いている。雨により背景をぼかす手法も、「大はし あたけの夕立」などで知られる師匠譲りの技だ。主題を下半分に近景として色鮮やかに描き、上半分は色の濃淡のみで奥行き感を生む。縦構図を生かし、カラフルな錦絵と墨一色の山水画が1枚に共存するような秀逸な作品である。

この1枚は版元の魚屋(ととや)栄吉が、2代目広重の襲名披露のために発行したものだと筆者は考える。広重が死去した翌年、養女・お辰(たつ)に門人の重宣(1826-69)が婿入りし、2代目を襲名した。初代の突然の死は、売れっ子絵師を失った魚屋にとっては痛手であり、その穴を埋めてくれることを期待したであろう。人気シリーズを締めくくる作品を描かせ、後継者として印象づけたと推測できる。

重宣は、初代が定火消同心だった時代の同僚の息子でもある。広重お得意の鳥瞰構図は、火の見櫓(やぐら)の上で培われたというのが筆者の持論だ。定火消役屋敷で育ち、高所になじみのあった2代目は跡取りにうってつけだったであろう。それをアピールするため、「師匠と同じところを上から描いてみてはどうだい?」と魚屋が持ち掛けたと想像すると、さらに重要な1枚に思われる。

2代目広重は、現在の赤坂見附交差点の南側、赤坂見附交番や、ビックカメラが入るベルビー赤坂付近から、北東にある赤坂プリンスの跡地、東京ガーデンテラス紀尾井町方向を望んでいる。溜池は埋め立てられ、道路や東急プラザ赤坂となっているが、雨にかすむ赤坂御門に向かう傾斜は、三宅坂(みやけざか)へと向かう国道246号の上り坂として、今でも面影を残している。ビルや空のモノトーンと、分離帯の緑のコントラストに、元絵の雰囲気を感じたので、坂道を上る人々のシルエットを合成し、作品に仕上げた。

関連情報

赤坂御門、紀尾井町

現在の外堀通り沿い、赤坂見附交差点付近から、東京メトロ「溜池山王」駅の東、特許庁前にある赤坂1丁目交差点付近にかけて、江戸時代には溜池と呼ばれる巨大な池が広がっていた。

徳川家康の入府以前は、自然の湧き水をたたえた野池であった。江戸城の拡充に伴い、南西を守る外堀として整備。当初は飲み水にも利用されたが、上水道の整備後は、防衛上の機能だけを担った。池の西側、今の港区赤坂側は、頑丈な根を張る桐の木を護岸用に植えていたので、江戸っ子から「赤坂桐畑」と呼ばれる名所になったという。

溜池の北端は、外堀を渡る土橋によって、現在の弁慶堀と隔てられていた。今回の絵にシルエットで登場する坂道は実は土橋で、上部には赤坂御門があった。分かりにくいが、絵の右端にも御門の建物の影が見える。外堀の城門は、石垣の上に立つ櫓から、侵攻してくる敵をいち早く見付ける役目があったので「見附」とも言い、赤坂御門も「赤坂見附」の呼び名で通っていた。城門の多くは、2つの門を90度に配し、石垣で四角く囲った「枡形門」という重厚な造りで、外側に堀を渡るための橋が架けられた。赤坂御門は広大な溜池の端にあり、高低差もあったため、坂道のような土橋を人工的に築いたのである。

『安政改正御江戸大絵図』(1858国会図書館蔵)を、溜池が外堀の機能を持っていたことが分かるように切り抜いた
『安政改正御江戸大絵図』(1858国会図書館蔵)を、溜池が外堀の機能を持っていたことが分かるように切り抜いた

2代広重は。赤坂御門の左下の「田丁(たまち)」と書かれた辺りから「紀伊殿」方向を描いている。田丁の左の赤い区画には、小さく「セイカンジ」とある
上の切絵図の紫で囲った部分を拡大。2代目広重は、赤坂御門の左下の「田丁(たまち)」と書かれた辺りから「紀伊殿」方向を描いている。田丁の左の朱色の区画には、小さく「セイカンジ」とある

実は、「2代目広重」を名乗った絵師は2人いる。重宣はお辰よりも20歳近くも年長だったせいか、夫婦仲が悪くなり、1865(慶応元)年に離縁して安藤家を去った。その後、お辰は同じく初代の門人で年の近い重政(1842-94)と再婚。重政は「われこそが正式な跡取り」とばかりに、3代目ではなく、「2代目広重」を名乗った。重宣の存在を無きものとしたかった、お辰の意向もくんだのかもしれない。

重宣は2代目広重として、『諸国名所百景』シリーズ(魚屋栄吉版)を代表に、師の無二の親友だった3代目豊国(初代国貞)との双筆作品『江戸自慢三十六興』を残すなど、初代の画風をよく継承した。離縁後は喜斎立祥(きさいりっしょう)と名乗り、開港間もない横浜へ移住。輸出用の茶箱に貼る絵を多数手掛けたため、「茶箱広重」の異名も持つ。1869(明治2)年に死去し、赤坂一ツ木町の清巌寺(せいがんじ)に葬られたという。襲名披露作を描いた場所のすぐ横で永眠したと考えると、何かの縁だとも感じてしまう。

今では3代目広重と呼ばれる重政も、精細な筆致の横浜絵や文明開化絵で人気を博し、偉大な初代に恥じない活躍をした。特に近年は、JR「高輪ゲートウェイ」駅周辺で発見された「高輪築堤」を描いた錦絵が、頻繁に話題に上る。

溜池は江戸時代後期から徐々に埋め立てられ、1888(明治21)年には完全に姿を消した。その後は、溜池町という地名が使われていたが、今ではその名を残すのは交差点やバス停、溜池山王駅くらいだ。赤坂見附跡は、東京ガーデンテラス紀尾井町の南側、246号沿いにあり、石垣が残されている。今回の写真の撮影場所からは、立体交差や首都高に阻まれ、石垣を眺めることはできないが、弁慶橋から赤坂御門跡まで坂道を上ってみると、在りし日の外堀や溜池の姿を想像することができるので、機会があれば訪れてみてほしい。

千代田区紀尾井町に残る赤坂御門と外堀の石垣。この右端に高麗(こうらい)門という外側の門が設置されていた
千代田区紀尾井町に残る赤坂御門と外堀の石垣。この右端に高麗(こうらい)門という外側の門が設置されていた

赤坂御門跡に設置されたアルミ板の碑には、坂道が土橋だったことが分かる写真も刻まれている
赤坂御門跡に設置されたステンレス板の碑には、坂道が土橋だったことが分かる写真も刻まれている

浮世写真家 喜千也「名所江戸百景」:広重目線で眺めた東京の今
「名所江戸百景」は、ゴッホやモネなどに影響を与たことで知られる浮世絵師・歌川広重(うたがわ・ひろしげ)の傑作シリーズ。 安政3年(1856年)から5年にかけて、最晩年の広重が四季折々の江戸の風景を描いた。大胆な構図、高所からの見下ろしたような鳥瞰(ちょうかん)、鮮やかな色彩などを用いて生み出された独創的な絵は、世界的に高い評価を得ている。その名所の数々を、浮世絵と同じ場所、同じ季節、同じアングルで、現代の東京として切り取ろうと試みているのが、浮世写真家を名乗る喜千也氏。この連載では、彼のアート作品と古地図の知識、江戸雑学によって、東京と江戸の名所を巡って行く。

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