『下谷広小路』:浮世写真家 喜千也の「名所江戸百景」第88回
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松坂屋の商標を掲げる建物が真新しい理由
現在の東京で「広小路」といえば、ほとんどの人が東京メトロ銀座線の「上野広小路」駅を想起し、同時に駅直結の百貨店「松坂屋上野店」を思い浮かべるのではないだろうか。
松坂屋から上野公園に至る中央通り一帯は、江戸時代には「下谷広小路」と呼ばれていた。元々は徳川将軍家が東叡山寛永寺(現・上野公園)へ参詣する際に通った御成道(おなりみち)で、明暦の大火(1657年)後に拡幅されて、延焼を避けるための火除(よ)け地を兼ねる「広小路」となった。下谷は、上野山から南西の湯島にかけての丘陵の下に広がっていた平地を指していたが、現在はJR上野駅の北東にある町の名として残っている。
広重は、下谷広小路の南端から北の寛永寺方向を得意の俯瞰(ふかん)で描いている。奥に見える森が上野の山で、右手前に建つ大店(おおだな)の暖簾(のれん)には、今でもおなじみの松坂屋の商標「いとうまる」が染め抜かれ、両脇に「いとう」「まつさかや」と仮名文字が添えられている。
松坂屋上野店の前身は、呉服店「いとう松坂屋」だ。1768(明和5)年、尾張徳川家の御用商人だった名古屋の「いとう呉服店」が、下谷広小路の「松坂屋」を買収して江戸に進出。江戸っ子になじみのある松坂屋の名を残し、尾張徳川家に加えて加賀百万石・前田家の御用を務め、寛永寺の法衣(ほうえ)も扱うなど大いに繁盛したという。ちなみに屋号紋は、創業一族・伊藤家の「藤」の字を、結束を表す「井桁(いげた)」と完全を意味する「円」で囲んだもの。松坂屋なのに“松”ではなく “藤”の文字がデザインされているのには、こんな理由があったのだ。
この絵については、描いた時期や季節が話題に上がることが多い。年月印は1856(安政3)年9月なのに、目録では春の景に分類されているからだ。第85回『上野山した』でも書いたように、江戸時代にはそろいの傘や手ぬぐいを身につけ、集団で花見に出向くのが流行した。同じ傘を差しているのは、舞踊や声曲(せいきょく)などの芸事の師匠と大勢の弟子であろう。このような行列の絵を見れば、江戸っ子は桜が登場していなくとも、花見の風景だと分かるものだった。
いとう松坂屋の建物の木材が、他と比べて真新しいことにも着目してほしい。実は前年4月の安政江戸地震で、いとう松坂屋は全焼している。自ら被災しながらも、大店(おおだな)の責務として炊き出しや支援物資の供給をしつつ、仮店舗で営業を続けたそうだ。そして、新店舗が完成したのが約1年半後で、この絵の発行と同じ安政3年9月。いとう松坂屋は新築大売り出しに際し、5万5000枚の引き札(チラシ広告)を江戸全域に配り、3日間で3000両以上を売り上げたというから、この絵も宣伝の一環だったと考えられる。当時、『名所江戸百景』の版元・魚屋(ととや)栄吉の店が、いとう松坂屋のはす向かいの新黒門町にあったことも広告説を裏付ける。さらに言えば、開店セールと同時に絵が摺(す)り上がっていたので、広重は竣工前に予想図を描いたことになる。
名所江戸百景は安政江戸地震から立ち直る江戸の姿を描いたシリーズなので、広重は単なる広告としてではなく、復興に貢献した大店(おおだな)に敬意を示したと考えられる。そして、上野といえば桜の名所なので、花見の要素も外せない。どうせ完成予想図になるなら、「翌年春になっても繁盛が続いている松坂屋を描こう」となったのでないかと筆者は推測する。もしかしたら、魚屋栄吉の屋根に上って、筆を握ったのかもしれない。
2017年、上野公園入り口の桜が満開の時期、早朝に出向いた。どうしても松坂屋上野店、本館上部の「いとうまる」をフレームに収めたかったので、横断歩道に脚立を立ててシャッターを切った。この時、1階の軒は、赤地に金文字で「Matsuzakaya」と書かれていたが、その後、紺地に屋号紋が並ぶようになった。機会があれば、また作品撮影に出掛けてみようと思う。
●関連情報
筒袖羽織と細袴、松坂屋上野店
今回の絵には、そろいの傘の集団を眺める人々が描かれているが、中央手前にいる二本差しの侍に注目したい。この男たちを、「輸入して間もない西洋ズボンをはいた武士」と解説する研究者もいる。尻端折り(しりっぱしょり)した町人らの股引(ももひき)と同じようにも見えるが、拡大すると脚に密着した股引とは違うゆったりとしたシルエットで、羽織の袖も筒袖になっている。
1853(嘉永6)年に黒船が浦賀に来航して以来、幕府も諸藩も西洋式の軍事調練を盛んに行い、それに合わせて服装も変化していく。大砲や鉄砲、軍船などを扱う上で、裾が広い袴(はかま)や、袂(たもと)の大きな着物は邪魔になるため、ズボンのような「細袴」や、袂のない筒袖が好まれ、若い武士たちに広まったそうだ。1868(明治元)年からの戊辰(ぼしん)戦争の錦絵では多くの武士が洋装で戦う姿を見られるが、この絵は安政五カ国条約(1858)以前に描かれたので、彼らが着るのは輸入した洋服ではなく、国産の細袴や筒袖羽織だろう。激動の時代を見据えた広重が、洋装文化の流行を予見して、あえて江戸でも指折りの呉服店の前に描いたと推測できる。
現在の百貨店・松坂屋の歴史は、1611(慶長16)年、伊藤祐道(すけみち)が名古屋で「いとう呉服店」を創業したことに始まる。江戸の三大呉服店といえば、日本橋通一丁目の「白木屋」(1662年出店)、駿河町の「三井越後屋」(現・三越、1673年出店)、大伝馬町の「下むら大丸屋」(現・大丸、1743年出店)だが、大丸屋の25年後に出店した「いとう松坂屋」は、それに準じる存在となった。いとうまるの屋号紋は、江戸で一番のファッション街・大伝馬町を描いた『東都大伝馬街繁栄之図』にも登場する。そちらは「亀店(かめだな)」と呼ばれた木綿問屋「伊藤屋」で、問屋を兼業することで上野店(鶴店)の商品も廉価で販売できたという。
彰義隊と官軍が戦った上野戦争の際、いとう松坂屋は大村益次郎の率いる官軍の本営となり、西郷隆盛も立ち寄ったという。その頃には一般人の洋装化も進んでおり、呉服業界は右肩下がりになっていく。1910(明治43)年には江戸三大呉服店同様、松坂屋も株式会社となり、百貨店へと変遷しながら生き残った。当初は「株式会社いとう呉服店」としたが、昭和に入ると「株式会社松坂屋」に改めている。1924(大正13)には銀座店もオープンしていたので、売り上げの大きい東京での通り名を優先したのは、いかにも商売人らしい。
2007(平成19)年には、三大呉服店の一つだった大丸と松坂屋ホールディングスが共同持株会社J・フロントリテイリングを設立して経営統合したが、松坂屋上野店は今でも同じ場所に同じ屋号紋を掲げて営業している。ネット通販隆盛にコロナ禍が重なり、百貨店にとっては厳しい時代だが、震災や幕末の激動から見事に復興を遂げた歴史を振り返ると、ここでももうひと踏ん張りしてほしいものだ。