『大てんま町木綿店』:浮世写真家 喜千也の「名所江戸百景」第87回

歴史

歌川広重『名所江戸百景』では第7景となる「大てんま町木綿店(おおてんまちょうもめんだな)」。江戸の流行発信地・大伝馬町で、軒を連ねていた木綿生地屋の店先を描いた春の一枚である。

衣替えの春に、粋な芸者で町を宣伝

大伝馬町(現・中央区大伝馬町と日本橋本町の一部)は、江戸で最も古い町の一つ。徳川家康が日本橋を基点として街道の整備を始めた際、公用で使用する「伝馬」をつなぐための宿駅として日光・奥州街道沿いに誕生した。後に江戸近郊の宿場町が発展したことで、宿駅の機能が千住に移されると、全国からの物資が集まる大伝馬町は商業の町へと変貌する。江戸一番の繁華街・日本橋から程近く、呉服屋や繊維問屋が軒を連ねたことから、ファッション発信地としてにぎわった。

広重は大伝馬町一丁目を、西隣の本町(ほんちょう)から眺めている。右手中央の暖簾(のれん)越しには、生地が積み上げられた横で商談する姿が見えるので、木綿店だと分かる。右手前から「たばたや」「ますや」「しまや」と、藍染めの暖簾に染め抜かれた屋号をしっかりと描いていることから、第78回『大伝馬町こふく店』の「大丸」同様に広告主なのは明白だ。

町を区切るための木戸と芸者を近景の枠とし、建物に遠近法を用いる広重お得意の構図だが、「棟梁(とうりょう)送り」の行列が登場して色鮮やかな「こふく店」と比べると、少し地味で面白みに欠ける。広重は『名所江戸百景』シリーズを手掛ける前に、今回の絵とは反対側から大伝馬町一丁目を描いている。『東都大伝馬街繁栄之図』という3枚綴(つづ)りの作品で、富士山も登場する壮大な作品だ。その一大パノラマを知る広重ファンにとって、今回の絵はどこか物足りない。そのため、研究者の中には、広告要素が強い絵にうんざりとしていた広重が、皮肉として辰巳芸者を登場させたという説を唱える人もいる。

『東都大伝馬街繁栄之図』(国会図書館蔵)。3枚つづりの中央奥に本町との境の木戸がある。名所江戸百景に描かれる「たばたや」「ますや」「しまや」の暖簾が木戸の左側に描かれている
『東都大伝馬街繁栄之図』(国会図書館蔵)。3枚綴りの中央奥に本町との境の木戸がある。名所江戸百景に描かれる「たばたや」「ますや」「しまや」の暖簾が木戸の左側に描かれている

辰巳芸者は気風(きっぷ)がよく、男が着るような羽織をまとい、冬でも足袋をはかない。この絵でも、「勝虫(かちむし)」と呼ばれて武具などに使われるトンボ柄をあしらった絹の着物を身に付け、はだしに下駄(げた)といういでたちである。足袋すらはかない辰巳芸者は、木綿とは無縁の存在だったのだ。

しかし、情緒的と評価される広重の作品だけに、筆者はこんな物語を想像せずにはいられない。当時、大伝馬町の南にある芳町(現・中央区日本橋人形町)には辰巳芸者が住む茶屋街があり、2人の芸者は御髪(おぐし)が乱れているので、大店(おおだな)でのお座敷を終えた帰り道であろう。修行中の「半玉(はんぎょく)」を従えている姐(ねえ)さんたちは、振る舞い酒を賜り、祝儀もたんまりと頂戴して上機嫌。半玉は木綿の帯を締めるのが決まりだったので、「大伝馬町の木綿店へ寄って、帯でも買ってやろうか」となったのかもしれない。

いざ木綿街に来ると、店も品物もたくさんあって目移りしてしまう。気がついたら芳町から遠ざかり、本町との境まで来てしまった。半玉はため息をついて「酔ったねえさんたちは、結局、何にも買ってくれやしない…」とつぶやく。こんなストーリーを思い浮かべると「木綿に縁のない辰巳芸者でさえ、出向きたくなる大伝馬町」というのが、この絵の広告コンセプトだったのではないかとも思えてくる。

尾張屋版『江戸切絵図』(国会図書館蔵、1850年刊)の「神田濱町日本橋北之図」。大伝馬町を紫、本町を水色に網掛けした。日本橋から続くオレンジの道が日光・奥州街道で、そのまま進むと両国広小路へ出て、千住宿へと至る。ピンク色は、辰巳芸者が住んだ芳町
尾張屋版『江戸切絵図』(国会図書館蔵、1850年刊)の「神田濱町日本橋北之図」。大伝馬町を紫、本町を水色に網掛けした。日本橋から続くオレンジの道が日光・奥州街道で、そのまま進むと両国広小路へ出て、千住宿へと至る。ピンク色は、辰巳芸者が住んだ芳町

今回の絵に描かれた場所は、現在、昭和通り沿いの日本橋本町三丁目となっている。2018年春、かつての日光街道である大伝馬本町通りを端から歩くと、桟(さん)が整然と並び、広重の描いた木綿店の長屋の雰囲気と同調する建物を見つけた。遠近感の出る広角レンズを装着し、2階部分の軒のラインを元絵に合わせてシャッターを切った。

関連情報

辰巳芸者、芳町花柳界、大伝馬町

辰巳芸者とは、江戸城の辰巳(南東)の方角に位置する深川の芸者のこと。現在の富岡八幡宮(江東区富岡)を管理した永代寺の門前町が発展すると、深川には江戸で最大級の岡場所(非公認の遊里)が形成され、遊女に加え、たくさんの芸者がいた。

深川の芸者は「芸は売れども色は売らず」といわれ、三味線や踊りが達者で、「奴(やっこ)」「太郎」など男のような源氏名を持ち、男物の羽織を身に付け、冬でも足袋をはかない。その気風の良さで、「辰巳芸者」のブランドを確立したのだ。しかし、19世紀前半の天保の改革で、江戸中の岡場所が全て閉鎖となる。活躍の場を奪われた深川の芸者たちは、柳橋や芳町へと離散していった。

芳町は、かつて「中村座」「市村座」といった人気芝居小屋のあった葺屋町(ふきやちょう)や堺町に隣接していた。芝居がはねた後、お大尽が役者らを呼んで宴を催すような茶屋が集まる場所だったという。こちらも天保の改革の頃、全ての芝居小屋が浅草の北に移転となってしまう。芳町の茶屋街も衰退するかに思えたが、それを盛り立てたのが深川から移り住んだ辰巳芸者であった。

明治に入り、芳町の南・蛎殻町(かきがらちょう)に米穀取引所が置かれると、相場師たちの社交の場として花柳界は急成長する。明治中期には、役者の川上音二郎と結婚した芳町芸者・貞奴が日本初の女優に転身。昭和初期に芸者・勝太郎が歌手デビューすると最盛期を迎え、芸者の数は700人に及んだそうだ。

太平洋戦争で芳町の花柳界は営業停止となり、その後は衰退の一途をたどる。現在、料亭は「弦冶店濱田屋(げんやだな はまだや)」1軒だけとなった。柳橋の花柳界も1999(平成11)年に途絶えてしまい、今や辰巳芸者の流れをくむのは、芳町にわずかに残る高齢の芸者だけになってしまったという。

大伝馬町の歴史については以前も触れたので割愛するが、広重の『東都大伝馬街繁栄之図』を見ると当時の風景がよく分かる。木綿店の長屋が続く統一感のある街並みは、現在のショッピングモールのような場所だったであろう。

屋根の上には、店と店を仕切るように白い土壁のようなものが突き出ている。「うだつ」という防火壁で、元々は建屋の下からつながっていたが、次第に装飾的な意味合いが強くなり、商家では大きさや飾りを競い合っていたという。なかなか出世できないことを「うだつが上がらない」と言うが、その語源である。大伝馬町は全ての店にうだつが上がっているので、店主たちはさぞ繁盛していたのだろう。

この絵に登場した店は、今ではほとんどが商売を替えたり、移転したりしており、廃業した店も少なくない。一番奥の木戸の右に描かれた「小津屋」という紙問屋だけは、今でも同じ場所で和紙を扱う商売を続けている。作品を和紙にプリントして展示や販売をしている筆者にとっては、少なからずお世話になっている店だ。辰巳芸者の伝統と共に、これからも長く続いてくれることを願っている。

『東都大伝馬街繁栄之図』と同じ場所で、現在の風景を3枚つづり風に撮影してみた。中央奥を横切る高架は昭和通りの上を走る首都高速1号上野線で、その向こうは日本橋本町、日本橋室町で、商業施設やオフィスビルが立ち並ぶ
『東都大伝馬街繁栄之図』と同じ場所で、現在の風景を3枚綴り風に撮影してみた。中央奥を横切る高架は昭和通りの上を走る首都高速1号上野線で、その向こうは日本橋本町、日本橋室町で、商業施設やオフィスビルが立ち並ぶ

浮世写真家 喜千也「名所江戸百景」——広重目線で眺めた東京の今
「名所江戸百景」は、ゴッホやモネなどに影響を与たことで知られる浮世絵師・歌川広重(うたがわ・ひろしげ)の傑作シリーズ。 安政3年(1856年)から5年にかけて、最晩年の広重が四季折々の江戸の風景を描いた。大胆な構図、高所からの見下ろしたような鳥瞰(ちょうかん)、鮮やかな色彩などを用いて生み出された独創的な絵は、世界的に高い評価を得ている。その名所の数々を、浮世絵と同じ場所、同じ季節、同じアングルで、現代の東京として切り取ろうと試みているのが、浮世写真家を名乗る喜千也氏。この連載では、彼のアート作品と古地図の知識、江戸雑学によって、東京と江戸の名所を巡って行く。

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