『せき口上水端はせを庵椿やま』:浮世写真家 喜千也の「名所江戸百景」第84回

歴史

歌川広重『名所江戸百景』では第40景となる「せき口上水端はせを庵椿やま(せきぐちじょうすいばた はせをあん つばきやま)」。桜色をアクセントにして、のどかな田園風景を描いた春の一枚である。

芭蕉へのオマージュが感じられる水辺の情景

長く分かりづらい題名だが、「椿やま」は名門結婚式場として知られる「ホテル椿山荘東京」(文京区関口)周辺の高台のことだといえば、ピンとくる人も多いのではないだろうか。

たくさんのツバキが自生していた関口台地は、古くから「椿山」と呼ばれていた。景勝地として名高く、江戸時代には大名や武家の下屋敷が並んでいた。南側の斜面下を流れる神田川は、元々は江戸の町に飲み水を供給するために引かれた「神田上水」だったので、そのほとりは「上水端」となる。「はせを庵」は、椿山荘の西隣に残る現在の「関口芭蕉庵」のことを指す。

井の頭池を主水源とする神田上水は、関口にあった「大洗堰(おおあらいぜき)」で2つの流れに分岐していた。一方は飲料水(上水)として、石や木材で造った(とい)を通じ、神田や日本橋など江戸の中心部に送られた。残りの水は、飯田橋で江戸城外掘とつながる神田川へと流れていく。

広重がこの絵を描く180年ほど前、大洗堰付近では大規模な改修工事が行われた。江戸に来て間もなかった松尾芭蕉(1644-94)は、工事の管理をする事務方として3~4年従事したという。その間に寝泊まりしていたのが、神田上水を守護する水神社近くの水番所だ。「芭蕉庵」と呼ばれるようになったのは、芭蕉の没後のこと。由縁の地に、弟子らが塚や堂を建てたのが始まりとされる。

尾張屋版『江戸切絵図』(国会図書館蔵、1853年刊)の「雑司ヶ谷音羽絵図」から、関口近辺を切り抜いた。紫の枠で囲った水神別当(洞雲寺)の敷地に芭蕉庵があった。現在の駒塚橋は、関口芭蕉庵の西側に架け替えられたため、写真の方には写り込んでいる
尾張屋版『江戸切絵図』(国会図書館蔵、1853年刊)の「雑司ヶ谷音羽絵図」から、関口近辺を切り抜いた。紫の枠で囲った水神別当(洞雲寺)の敷地に芭蕉庵があった。現在の駒塚橋は、関口芭蕉庵の西側に架け替えられたため、写真の方には写り込んでいる

広重は大洗堰の西にあった駒塚橋辺りの北岸から、西の上流方向を俯瞰(ふかん)で望んでいる。芭蕉庵をぎりぎり画角に入れることで、対岸の早稲田の田園風景を遠くまで描き、奥行き感を生んだ素晴らしい構図だ。一番奥に見える緑の丘は高田馬場のあった台地で、画面左端に小さく見える朱色の建物は穴八幡宮だと思われる。

芭蕉は早稲田の水田地帯を、大好きな琵琶湖の風景に重ね合わせ、とても気に入っていたという。芭蕉庵内の「五月雨塚」には、琵琶湖の情景を詠んだ「五月雨にかくれぬものや瀬田の橋」の肉筆の短冊が納められた。広重にとって芭蕉は、表現手法は違うものの、諸国を旅して創作活動に励んだ共通点を持つ存在だ。偉大な先達がめでた風景に思いを寄せることで、のどかながら美しい情景を生み出したのではないだろうか。

芭蕉庵では五月雨塚の傍らにあった「五月雨の松」と、正門近くの「夜寒(よさむ)の松」が銘木として知られていた。特に夜寒の松はしなやかな曲線を描き、芭蕉庵のシンボル的存在だったようだ。その見事な枝ぶりを引き立てるように、春の主役ともいえる桜を背景に配置したのが、なんとも広重らしい。緑に囲まれることで薄紅色が浮き立ち、逆に桜も印象的である。地平線の奥の夕暮れに染まった空の色とも同調させ、のどかな田園風景に華やかなアクセントを加えた秀逸な作品だ。

現在、東京メトロ有楽町線の駅がある江戸川橋から、西の都電荒川線の「面影橋」に向かって、神田川沿いには2キロ近くも桜並木が続く。人込みを避けて平日の昼間に訪れたのだが、オフィス街に近い江戸川橋周辺は、ランチタイムのプチ花見を楽しむ人であふれていた。川沿いの桜は大きく育ち、背景にビルが立ち並ぶために見通しも悪かったが、神田川と桜、椿山の斜面、芭蕉庵の門をフレームに収めシャッターを切った。

●関連情報

関口、神田上水、関口芭蕉庵、ホテル椿山荘東京、江戸川公園

広重の時代の関口付近は水辺の景勝地で、芭蕉庵や水神社に加えて目白不動もあったため、江戸中心地から近い行楽地として人気があった。

関口の地名は、大洗堰に由来するとの説と、江戸開府以前に関所が置かれていたからという説がある。広重は『絵本江戸土産』の中で“堰口と表記するべきだ”と主張しているので、今回の絵の題でもあえて「せき口」とひらがなにしたのだろう。江戸名所案内の元祖『江戸名所図会』にも「堰口」の表記があるので、江戸っ子にとっては「目白不動近くの滝のような堰がある辺り」といった認識だったと思われる。

『江戸名所図会』(国会図書館蔵)の「目白下大洗堰」。現代のダムのような大洗堰には、多くの見物客が訪れたであろう
『江戸名所図会』(国会図書館蔵)の「目白下大洗堰」。現代のダムのような大洗堰には、多くの見物客が訪れたであろう

1677(延宝5)年から始まった神田上水の改修工事を指揮したのは、治水技術に長じていた伊勢国津藩の藤堂家。芭蕉の出身地・伊賀をも治めた大藩である。そのため、かつての主家の恩に報いるために参加したといわれるが、俳諧仲間からの紹介だったという説も根強い。いずれにしろ、名前が売れる前の芭蕉にとっては、住まいと定職はありがたかっただろう。五月雨の松と夜寒の松は、すでに2本とも枯死したため、現在の関口芭蕉庵には石碑のみが残っている。

芭蕉が早稲田の水田地帯を琵琶湖に見立てたように、椿山に故郷を重ねたのが明治の元勲・山県有朋だ。1878(明治11)年に椿山の広大な土地を購入し、生まれ育った長州・萩に見立てた庭園を築き、音読みの「椿山荘」と名付けた。その邸宅を1918(大正7)年に譲り受けた藤田財閥の藤田平太郎男爵は、三重塔を移築するなど名庭園に磨きをかける。それが藤田観光運営のホテル椿山荘東京につながり、現在は “都会のオアシス”と称されている。

神田川の大洗堰から飯田橋までの区間は、神田上水が廃止される1901(明治34)年まで「江戸川」と呼ばれていた。その名残が、現在の江戸川橋や文京区江戸川公園である。江戸川橋の上流の川沿いには、1884(明治17)年頃から桜の木が植えられ、北岸の椿山荘までの間は1919(大正8)年に江戸川公園となった。緑豊かな園内には、大洗堰をモチーフにした石造りの池があり、神田上水の取水口が復元されている。公園西側にはホテル椿山荘東京、関口芭蕉庵、肥後細川庭園と歴史ある庭園が並んでいるので、江戸の行楽地だった面影を今に残している。

浮世写真家 喜千也「名所江戸百景」——広重目線で眺めた東京の今
「名所江戸百景」は、ゴッホやモネなどに影響を与たことで知られる浮世絵師・歌川広重(うたがわ・ひろしげ)の傑作シリーズ。 安政3年(1856年)から5年にかけて、最晩年の広重が四季折々の江戸の風景を描いた。大胆な構図、高所からの見下ろしたような鳥瞰(ちょうかん)、鮮やかな色彩などを用いて生み出された独創的な絵は、世界的に高い評価を得ている。その名所の数々を、浮世絵と同じ場所、同じ季節、同じアングルで、現代の東京として切り取ろうと試みているのが、浮世写真家を名乗る喜千也氏。この連載では、彼のアート作品と古地図の知識、江戸雑学によって、東京と江戸の名所を巡って行く。

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