『びくにはし雪中』:浮世写真家 喜千也の「名所江戸百景」第81回

歴史

歌川広重『名所江戸百景』では第114景となる「びくにはし雪中」。江戸っ子のシャレが効いた看板が大きく描かれた、食欲をそそる冬の一枚である。

江戸のB級グルメが食べたくなる美しい雪景色

「びくにはし」とは、江戸城外堀から京橋川が分岐した地点にあった「比丘尼橋」のこと。外堀や京橋川は埋め立てられたために跡地は分かりにくいが、今の中央区銀座1丁目の北西端、東京高速道路が外堀通りの上を通過する辺りに架かっていた。

広重は比丘尼橋北詰から、橋を中央に南方向を描いている。右の石垣は外堀のもので、その向こうには大名屋敷が立ち並んでいた。遠くに見える火の見櫓(やぐら)は、数寄屋橋付近の南町奉行所のものだろう。この付近は江戸の中心部でありながら、当時はあまり華やかな場所ではなかったようだ。夜になると、尼僧の装束に身を包んだ街娼「比丘尼」が出没し、橋の名の由来となったという説もある。現在の銀座で和食グルメといえば、すしや天ぷら、うなぎといった高級料理店が思い浮かぶが、この絵の中には江戸のB級グルメが勢ぞろいしている。

尾張屋版『江戸切絵図』(国会図書館蔵、1849年刊)の「日本橋南之図」を、北を上にして京橋周辺を切り抜いた。左を南北に流れる川が外堀で、中央から分岐して東へ向かうのが京橋川。広重は朱色に塗った比丘尼橋の右上の地点から、下(南)方向を見てこの絵を描いた
尾張屋版『江戸切絵図』(国会図書館蔵、1849年刊)の「日本橋南之図」を、北を上にして京橋周辺を切り抜いた。左を南北に流れる川が外堀で、中央から分岐して東へ向かうのが京橋川。広重は朱色に塗った比丘尼橋の右上の地点から、下(南)方向を見てこの絵を描いた

大きく「山くじら」と書かれているのは、尾張屋という「ももんじ屋」の看板だ。ももんじ屋とは、動物や鳥の肉を食べさせる店である。江戸時代には肉食が忌避されていたが、病後の滋養強壮の薬という名目で提供しており、幕末には健康であっても「薬食い」と称し、好んで肉を食べる庶民が増えていたという。それでも、大っぴらに商売することははばかられたため、肉の名前に隠語を使っていた。山くじらはイノシシ肉のことである。当時、くじらは魚と考えられ、比較的メジャーな食材だったので、「山に住むくじら」ならば煮て食べても問題ないという発想だ。

右側には「十三里 ○やき」の行燈(あんどん)を出したよしず張りの店がある。これは「甘藷(かんしょ)の丸焼き」という意味で、「焼き芋」のこと。江戸後期に「栗(九里)より(四里)うまい十三里(9+4=13)」というシャレを効かせたキャッチコピーが流行してから、多くの焼き芋屋が「十三里」の看板を掲げたという。

橋の手前でてんびん棒を担ぐのは「おでん屋」で、一緒に煮物やかん酒なども行商していたそうだ。しし鍋に焼き芋、おでんは、いずれも当時のB級グルメだが、しんしんと雪が降る寒い日にはたまらない食べ物だっただろう。近くの日本橋や京橋と比べれば少し怪しげな場所だが、江戸の裏通りならではの魅力を伝える秀作と言える。この絵が摺(す)られた1858(安政5)年10月は、広重がコレラで他界した翌月で、描画の完成度も低いことから、多くの研究者が二代広重の作だとしている。しかし、筆者は、ウィットに富む初代広重が残したスケッチを、二代目が完成させたのではないかと考えている。

2018年1月22日、東京は久しぶりの大雪だった。橋の北詰だった地点からは東京高速道路が雪景色を遮るので、南詰辺りでカメラを構えた。今では堀も橋もないが、外堀跡に沿うように、東京高速道路下にある商業施設「銀座インズ」「西銀座デパート」の電飾が数寄屋橋方面まで続く。家路を急ぐ人々の姿を見ながら、「温かい夕飯が待っているのだろう」などと想像しながらシャッターを切った。

●関連情報

江戸の隠語、東京高速道路、西銀座デパート、コリドー街

東海道(現・中央通り)沿いの京橋の北側には、江戸で最も古い町のひとつ南伝馬町(現・京橋1丁目〜3丁目の中央通り沿い)で、大伝馬町などと同様に商家や立派な蔵が立ち並んでいた。その裏通りには、職人が多く住む町屋区域が整備されていた。比丘尼橋の北詰は北紺屋町、南には南紺屋町があり、近くには南鍛冶町、畳町、具足町、桶町、大鋸町(おおがちょう)など、職人にちなんだ町名が多くみられる。定火消同心だった広重は、家督を譲った後に京橋近くに引っ越し、常磐町あるいは大鋸町に住んでいたとされるので、比丘尼橋辺りにもなじみがあっただろう。

外堀通りと東京高速道路が交差する地点を、広重が描いた辺りから、ほぼ同じ方角を見て撮影した写真。高速下左側の歩道付近に比丘尼橋が架っていた。右側には東京交通会館や有楽町イトシアが見える
外堀通りと東京高速道路が交差する地点を、広重が描いた辺りから、ほぼ同じ方角を向いて撮影した写真。高速下左側の歩道付近に比丘尼橋が架っていた

肉料理や焼き芋に使われた隠語の由来には諸説あるが、とてもユニークなので少し紹介したい。イノシシ肉の呼び方では、「山くじら」よりも「牡丹(ボタン)」の方が現代でも使われている。襖絵などの図柄として使われることの多い「牡丹に唐獅子」から来ているそうだ。「獅子」の音に「イノシシ」を引っかけて、「ボタン」と言えばイノシシ肉を指すというのだからひねりが利いている。

ジビエ料理では、イノシシ肉と並んでポピュラーなシカ肉は、「紅葉(モミジ)」と呼ばれていた。その由来は「奥山に紅葉踏みわけ鳴く鹿の 声きく時ぞ秋は悲しき」という百人一首とする説、花札の10月札の絵柄「紅葉に鹿」という説がある。いずれも広く親しまれた遊びなので、「シカ肉=紅葉」が浸透するまで、さほど長い時間はかからなかったであろう。

「甘藷=サツマイモ」は飢饉(ききん)対策として、8代将軍・徳川吉宗(1684-1751)の時代に西日本から江戸に入る。焼き芋が江戸で「十三里」として売られる以前から、京都では「八里半」として販売していたそうだ。「味が栗(九里)に近い」「栗には少しおよばない」といったシャレだそうで、これが十三里の基になったのであろう。関東のサツマイモ名産地は川越(埼玉県)で、十三里には川越宿から日本橋までの距離を表しているという説もある。

比丘尼橋は、関東大震災後の復興事業で架け替えられた際、住民からの請願によって「城辺橋(しろべばし)」に改称した。「比丘尼=街娼」というイメージを払しょくしたかったのであろう。京橋川は太平洋戦争後に埋め立てが始まり、1965(昭和40)年に完全に消滅。その過程で京橋や城辺橋も無くなった。

京橋川や同時期に埋め立てられた外堀川の南部、汐留川の上には、全長約2キロの東京高速道路が1966年に全面開通する。商業ビルと一体的に開発し、ビルの屋上に高速道路を通したのは、通行料を徴収せず、テナント料で道路管理や補修の費用を賄う先進的な取り組みだった。その結果、誕生したのが銀座の人気スポット「西銀座デパート」や「銀座インズ」、「銀座コリドー街」などである。東京高速道路は首都高速道路に接続して一体的に運用されているので、ETCが普及してからは、首都高とは別会社が運営していることも、無料のメリットも知らない人が多いかもしれない。

東京高速道路を通ったり、西銀座デパートや銀座コリドー街に立ち寄ったりした際には、150年以上前の江戸の町とB級グルメに思いをめぐらせるのも一興だろう。

東京高速道路の下にある商業施設・銀座インズ。この先が西銀座デパートで、銀座ファイブ、コリドー街、銀座ナインの順で連なっている。中央のビルは有楽町イトシアで、右が東京交通会館
東京高速道路の下に商業施設・銀座インズがある。この先に西銀座デパート、銀座ファイブ、銀座コリドー街、銀座ナインの順で連なっている。中央のビルは有楽町イトシアで、右が東京交通会館

浮世写真家 喜千也「名所江戸百景」——広重目線で眺めた東京の今
「名所江戸百景」は、ゴッホやモネなどに影響を与たことで知られる浮世絵師・歌川広重(うたがわ・ひろしげ)の傑作シリーズ。 安政3年(1856年)から5年にかけて、最晩年の広重が四季折々の江戸の風景を描いた。大胆な構図、高所からの見下ろしたような鳥瞰(ちょうかん)、鮮やかな色彩などを用いて生み出された独創的な絵は、世界的に高い評価を得ている。その名所の数々を、浮世絵と同じ場所、同じ季節、同じアングルで、現代の東京として切り取ろうと試みているのが、浮世写真家を名乗る喜千也氏。この連載では、彼のアート作品と古地図の知識、江戸雑学によって、東京と江戸の名所を巡って行く。

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