『高田の馬場』:浮世写真家 喜千也の「名所江戸百景」第79回
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庶民の娯楽の場にもなっていた幕府の武術鍛錬所
「高田の馬場」は、幕臣が馬術や弓術の稽古をするために、徳川3代将軍・家光が1636(寛永13)年に造営した馬場のこと。JR山手線の駅名や新宿区の町名である「高田馬場」の読み方は「たかだのばば」だが、史跡としては「たかたのばば」と濁らない。
現在の新宿区高田馬場ではなく、少し東の西早稲田3丁目に所在した。東京メトロ「早稲田」駅から早稲田通りを西に向かい、穴八幡宮沿いの坂を上り切った高台、西早稲田交差点の付近一帯だ。広さは東西6町(約645メートル)、南北三十余間(約55メートル)もあったというから、直線の長さは現在の地方競馬場に匹敵する大規模な馬場である。
「高田」については諸説あるが、この付近から中野方面にかけては高台で農村が点在していたので、古くから「高田」と呼ばれていたようだ。家光は穴八幡宮を高田馬場の守護神とし、社地・社殿を寄進し、神社前の八幡坂には茶屋や露店が立ち並んだという。
高田馬場を一躍有名にしたのが、後の赤穂浪士の一人・堀部安兵衛(武庸)が名を挙げた「高田馬場の決闘」(1694年)だ。浪人だった中山安兵衛は、義理の叔父の契りを結んだ菅野六左衛門の決闘に助太刀し、高田馬場で相手をバッタバッタと切り倒した。その評判を聞いた赤穂藩士の堀部弥兵衛(金丸)が娘婿に迎え入れたことで、安兵衛は赤穂事件(1702年)に参加することになった。この決闘は歌舞伎・浄瑠璃などで演じられ、『忠臣蔵』のエピソードとして全国に知れ渡り、武士のみならず庶民にも高田馬場の名が浸透したのだ。
1728(享保13)年には8代将軍・吉宗が、世継ぎの疱瘡(ほうそう)治癒を祈願するために穴八幡宮に流鏑馬(やぶさめ)を奉納した。無事完治したため、その後も将軍家は天下泰平を祈念して度々流鏑馬を奉納し、多くの見物人を集めたという。
穴八幡の向かいの水稲荷神社には、江戸最大・最古の富士塚「高田富士」が境内にそびえていたので、こちらにも多くの参詣客が訪れていた。行楽客が増えたことで、馬場の北側にも茶屋が並ぶようになり、今でもその道には「茶屋町通り」の名が残る。
今回の絵が刷られた1857(安政4)年の少し前、広重は『絵本江戸土産』でも高田馬場を描いている。周囲には、茶屋が並び、馬に乗る旗本のほか、庶民や、家族連れなども歩き、のどかな行楽地としての一面を紹介している。しかし、今回の絵では武士しか登場しない。近景の松を枠とした『名所江戸百景』独特の構図の向こうには、片肌を脱ぐ侍たちが大的(おおまと)に向かい弓を構え、2人が馬を走らせるという勇ましい光景である。背後に浮かぶ富士は、彼らを見守る守護神のようにも見えてくる。
2つの絵の間に、大きな変化をもたらしたのが、1853(嘉永6)年の黒船来航だ。攘夷の気運が高まったことで、武術の稽古に励む若武者が急増したという。御家人・安藤家の跡取りとして生まれた広重は、幕府の定火消同心を勤め上げた。さらに、祖父の田中幸右衛門は弓術師範で、この馬場で孫に稽古をつけたかもしれない。少なからず弓術に思い入れのある広重は、この絵によって弓馬の稽古に勤しむ若き幕臣たちにエールを送ったのかもしれない。
かつて高田馬場のあった辺りは、大通り沿いにビルが立ち並び、裏道は住宅街になっている。痕跡といえば、西早稲田交差点にある「高田馬場跡」の説明版くらいしか見当たらない。
富士を望める場所もないので、新目白通り方向に坂を下ると、水稲荷神社が遷座した甘泉園公園があった。境内には高田富士や、かつて茶屋町通りにあった「堀部武庸加功績跡碑」も移されているので、往時をしのべる数少ない場所と言えるだろう。甘泉園公園は御三卿・清水徳川家の下屋敷だった場所で、当時の面影を残す回遊式の日本庭園の他、児童用の遊具やテニスコートなども備えた新宿区の公園である。絵になる場所を探し、日本庭園に入ると元絵のような太い松の木を見付けたので、奥行きのある方へカメラを向け、松越しにシャッターを切った。
●関連情報
穴八幡宮、水稲荷神社、早稲田大学、甘泉園公園
穴八幡宮は1062(康平5)年、八幡太郎と呼ばれた源義家が前九年の役で奥州の安倍氏を滅ぼした帰途、兜と太刀を納めて創建したと伝わる。高田馬場があった辺りは、鎌倉を目指す頼朝が、隅田川を渡った後に兵をそろえた場所だという伝承もある。清和源氏の末裔と称した徳川将軍家にとって、幕臣を鍛えるにはうってつけの地であったのだ。通常の流鏑馬で使う馬場は直線で2町(約218メートル)とされているから、6町という規格外の長さの高田馬場で行われる流鏑馬神事は、さぞ大規模で見事なものだっただろう。
高田馬場造営時の穴八幡宮は、「高田八幡宮」と呼ばれていた。1641(寛永18)年に庵を建てるために山を切り開いた際、横穴の中から金銅の阿弥陀如来像が見つかったことで“穴”八幡宮と称するようになる。社伝によると、同時期に他の吉兆も重なり、それが家光の耳に入ったことで将軍家の祈願所、江戸城北の総鎮守に定められたという。
向かいの水稲荷神社も「高田稲荷」と呼ばれていた。18世紀初頭に霊水がわき出し、それが目の病に効くと評判となり、火除けの神としても信奉を集めて“水”稲荷となる。清水徳川家の下屋敷「甘泉園」も茶に最適な水がわくことが由来というから、この辺りは水質が良く、馬場や神社周辺の茶屋も評判だったのではないだろうか。高田馬場を中心に穴八幡宮や水稲荷もある行楽地で、大名の下屋敷が点在した早稲田界隈は、明治に入って様変わりする。大きな影響を与えたのが、政治家・大隈重信の存在である。
水稲荷の北側に別邸を構えていた大隈は、「明治14年の政変」(1881年)で一度政府から追放された。すると翌年、その隣接地に人材養成を目的とする東京専門学校を設立。それが後に慶應義塾と双璧を成す私学の雄・早稲田大学となる。大隈は1884(明治17)年にこの地に本宅を移すと、広大な庭園も築き、その後2度も首相を務めたのである。
発展していく早稲田大学は、学部と校舎を増やし、中学校や実業学校なども併設。キャンパスが広がるだけでなく、周辺には下宿屋や食堂、書店などが建ち並ぶ。1910(明治43)年に山手線「高田馬場」駅が開業すると、学生街はすぐに駅周辺にまで及んだという。甘泉園は戦前に早稲田大学の所有となっていたが、1961(昭和36)年に水稲荷神社の敷地を購入した替わりに東京都へ売却。水稲荷神社と高田富士は甘泉園内に移され、後に甘泉園公園は新宿区の管轄となった。
例年10月のスポーツの日には、穴八幡宮で神事を行った後、戸山公園で「高田馬場流鏑馬」が開催される(2020年は中止)。冬至から節分までの期間、穴八幡宮で授与するお守り・お札「一陽来復(いちようらいふく)」は、商売繁盛・金運上昇に御利益があるといわれ、初日や年末には商売人が列を成す。一陽来復は「悪いことが続いた後に良いことが来る」という意味なので、コロナ禍の現在、皆に希望を与えるお札であろう。訪れる際には社殿や鏑流馬射手の像などを眺めて、江戸時代の高田馬場にも思いを馳せてみてほしい。