『大伝馬町こふく店』:浮世写真家 喜千也の「名所江戸百景」第78回

歴史

歌川広重『名所江戸百景』では第74景となる「大伝馬町こふく店」。三井越後屋、白木屋と並んで江戸三大呉服店と呼ばれた大伝馬町の「大丸屋」を描いた一枚である。

大店が描かせた江戸の流行発信地

大伝馬町(現・中央区日本橋大伝馬町付近)は江戸市中で最も古い町の一つで、「天下祭り」と呼ばれる山王大権現「山王祭」と神田明神「神田祭」の両方で、筆頭氏子として先頭の山車(だし)を引く栄誉を授かっていた。五街道の日光・奥州街道に面する陸運の要所で、呉服屋や繊維問屋がひしめくファッション発信地でもあったという。

大伝馬町を代表する大店(おおだな)だったのが、「大」の字を丸で囲んだ屋号紋で知られた大伝馬町3丁目の「大丸屋(現・大丸百貨店)」。下村彦右衛門が京都で創業した呉服屋の江戸店で、三井財閥や三越の前身となった越後屋に次ぐ繁盛ぶりだったそうだ。

看板の屋号紋の左右に書かれた「げんきんかけねなし」とは、元禄年間(1688-1704)に越後屋が最初に始めた商売手法で、店頭での現金払いによって適正価格で販売すること。江戸時代前期の呉服屋などの小売店では、先に客の注文を聞き、家まで商品を届け、年に数回集金に行く「掛け売り」が常識であった。しかし、集金時までの金利や回収リスクを考慮した「掛け値」が上乗せされたために割高となる。明瞭会計の「店前(たなさき)売り」や「現金掛け値なし」は革新的で、江戸っ子に大いに受けた。大丸屋も関西でいち早く取り入れ、1743(享保3)年開業の江戸店でも採用し、成功を収めたようだ。

流行を生み出す呉服屋は、商売も先進的だったのに加え、今のファッション業界同様に宣伝上手でもあった。有名なのが「貸傘」で、急な雨が降ると無償で貸し出すのだが、江戸っ子は返さないのが当たり前で、骨傘になるまでずっと使っていたという。大丸屋の傘には「大の字に丸」の紋が大きく入っていたので、雨が降ると町中で店の宣伝をしてくれる。広告費と考えれば、返してもらわなくても問題ないというわけだ。

今回の絵も、明らかに大丸屋の宣伝だと思われる。なぜなら名所江戸百景では、ほんの3カ月ほど前に『大てんま町木綿店』が出たばかりだったからだ。宣伝上手を自負する大丸屋が、ヒットを続ける名所絵の大伝馬町の景に、よそののれんが登場したのを黙って見過ごすはずはない。版元へ大枚を持参し、「うちの店も描いとくれ」とごり押ししたのではないだろうか。広重お得意の近景を枠とする構図も、宣伝文句をしっかりと描いた看板が枠では少々あからさまに感じられ、版元からの発注に渋々従ったのではと想像してしまう。

とはいえ、このシリーズ最大のテーマ「安政江戸地震からの復興」も、広重らしく見事に表現している。店の前を通る集団は「棟梁(とうりょう)送り」で、建物の上棟式を終えた後、とびや左官など正装の職人たちが、大工の棟梁を家まで送り届けるしきたりの様子である。大伝馬町の周辺でも、数々の家や土蔵が倒壊したというから、新しい建物を完成させ、木やりをうたいながら誇らし気に歩く男たちの姿を、復興の象徴として登場させたのだ。

かつて大丸屋江戸店のあった日本橋大伝馬町の旧日光街道沿いには、オフィスビルが立ち並んでいる。呉服屋とは言わないまでも、せめてブティックくらいはないものかと通りを進むと、今でも衣服や洋裁用品を扱う店が軒を並べた横山町問屋街へと足を踏み入れていた。すると「大の字に丸」ならぬ、「中に丸」の屋号紋が目に飛び込んできたので、店長に広重の絵を見せながら事情を説明したところ、快く撮影に応じていただいた。実際の場所とは500メートルほど離れているが、同じ通り沿いの呉服店を、同じ方向から撮影することができたのだ。「呉服の丸中 東日本橋店」に感謝しつつ、“少しでも宣伝になればいいな”と思いながら作品に仕上げた。

関連情報

大伝馬町、横山町、馬喰町

徳川家康は関ヶ原の戦い(1600年)に勝利した後、陸運の要となる五街道の整備を進めるとともに伝馬制を敷いた。宿場ごとに人足や馬を常備し、リレー形式で次の宿場へと人や物を運ぶ仕組みである。時代によって数は異なるが、各宿場は約50頭の馬を備えていたという。

江戸府内の伝馬役を命じたのが、家康が江戸城に入る前から千代田村(現・新常盤橋付近)と宝田村(現・呉服橋付近)の住人である。1606(慶長11)年の江戸城拡張によって両村は移転となり、伝馬役を名主とする大伝馬町と小伝馬町(現・日本橋小伝馬町)、南伝馬町(現・京橋)が誕生した。江戸の古くからの住民であることが重んじられ、天下祭りの山車行列では大伝馬町が先頭の諫鼓鶏(かんこどり)、南伝馬町が2番手の御幣猿(ごへいざる)の山車を引いたという。

江戸時代の水運では米やみそ、酒などの食品を多く扱ったのに対し、絹や木綿、麻などは陸路で運んだ。そのため、各伝馬町の周辺には呉服(絹製)や太物(木綿や麻製)の問屋や商店が集まるようになる。同時に、千住や品川など江戸四宿が発展し、多くの馬を備えたことで、江戸中心部の伝馬施設の必要性が低くなったことも影響しただろう。特に大伝馬町は誰もが知る江戸一番の繊維街として発展していく。

当初の山王祭と神田祭は、いずれも毎年行われていたが、1681(天和元)年から隔年で交互に開催するようになる。氏子らの費用負担が大きいことも理由であったが、大伝馬町と南伝馬町は両方に参加していたので毎年大枚が消えたであろう。それが可能だったのも、繊維街の資金力と心意気が支えたと考えると合点がいくのだ。

1850(嘉永3)年に発行された尾張屋版『江戸切絵図』(国会図書館蔵)の「日本橋北神田浜町絵図」より、日本橋から横山町までを切り抜いた。日光・奥州街道をオレンジ、大伝馬町は紫で示している。大丸屋の裏通りには「大丸シンミチト云」とある
1850(嘉永3)年に発行された尾張屋版『江戸切絵図』(国会図書館蔵)の「日本橋北神田浜町絵図」より、日本橋から横山町までを切り抜いた。日光・奥州街道をオレンジ、大伝馬町は紫で示している。大丸屋の裏通りには「大丸シンミチト云」とある

上の切り絵図には、大丸屋があった場所に「通旅籠町(とおりはたごちょう)」と記してある。諸説あるのだが、元々大伝馬町は3丁目までだったが、いつからか2丁目までになり、3丁目は通旅籠町という町名に変わったようだ。ただ、大丸屋はこれが気に食わず、「大伝馬町 大丸屋」と名乗り続けた。天下祭りで先陣を切り、流行発信地として知られる大伝馬町のブランド力にこだわり続けたことで、人気シリーズ「江戸百」も利用して“大に丸の紋=大伝馬町の呉服店”というのを印象付けたと推測できる。その影響かは定かではないが、「大伝馬町3丁目」は幕末まで通旅籠町の俗称として使用され、多くの地図にも記載が残っている。

明治になると路面電車が通り、大伝馬町は華やかな呉服商店街となるものの、次第に洋装が主流となり、五街道の人通りも減ったことで商売の転換を迫られる。大丸屋も1910(明治43)年に東京店ののれんを下ろす。百貨店に生まれ変わった大丸が東京駅八重洲口に再び進出したのは、それから40年以上たった1954(昭和29)年のことである。

現在の日本橋大伝馬町は、東京の中心地に近いオフィス街へと変貌したが、前述のように横山町、馬喰町、東日本橋にかけては、呉服に限らず衣料品、タオル、生地など繊維製品を扱う卸問屋が今でも集まっている。小売りをする問屋も多いので、週末には掘り出し物を求める一般客が、店をのぞきながら街を歩く姿をよく見かける。お出掛けの際は、ぜひ「呉服の丸中」にも立ち寄ってみてほしい。

今でも繊維製品の卸問屋が軒を並べる平日の横山町問屋街。多くの路面店では小売販売もしている
今でも繊維製品の卸問屋が軒を並べる平日の横山町問屋街。多くの路面店では小売販売もしている

浮世写真家 喜千也「名所江戸百景」——広重目線で眺めた東京の今
「名所江戸百景」は、ゴッホやモネなどに影響を与たことで知られる浮世絵師・歌川広重(うたがわ・ひろしげ)の傑作シリーズ。 安政3年(1856年)から5年にかけて、最晩年の広重が四季折々の江戸の風景を描いた。大胆な構図、高所からの見下ろしたような鳥瞰(ちょうかん)、鮮やかな色彩などを用いて生み出された独創的な絵は、世界的に高い評価を得ている。その名所の数々を、浮世絵と同じ場所、同じ季節、同じアングルで、現代の東京として切り取ろうと試みているのが、浮世写真家を名乗る喜千也氏。この連載では、彼のアート作品と古地図の知識、江戸雑学によって、東京と江戸の名所を巡って行く。

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