『請地秋葉の境内』:浮世写真家 喜千也の「名所江戸百景」第77回

歴史

歌川広重『名所江戸百景』では第91景となる「請地秋葉の境内(うけじあきばのけいだい)。紅葉の名所として知られた向島の行楽地を描いた一枚である。

広重が自身の姿を残したという貴重な作品

今はこぢんまりとした向島の「秋葉神社」(墨田区向島4丁目)は、江戸時代には約7000坪もあり、火伏せの神として徳川将軍家や大奥、多くの大名から信奉されていたという。画題の「請地(うけじ、うけち)」は村名で、現在の東京スカイツリーの北側、押上1・2丁目と向島4・5丁目辺りの土地を指す。

秋葉神社の社伝によれば、13世紀に千代世(ちよせ)稲荷社として創建され、江戸時代初期に修験僧によって鎮火の神「秋葉権現」の尊像が祀られた。1702(元禄15)年に社殿を造営し、神社を管理する別当寺の「満願寺」も建立され、「秋葉稲荷両社」と称するようになる。江戸の町は度々大火によって壊滅的な被害を受けたため、武家から庶民に至るまで秋葉権現への信仰はあつかった。数々の寄進によって繁栄し、満願寺の敷地に広大な林泉(庭園)が築かれると、江戸っ子は「秋葉山」や「秋葉大権現」と呼んで親しみ、門前には料理店も並んだ。

四季を通じて行楽客でにぎわったようだが、「秋葉」の名にふさわしく、特に紅葉の名所として知られた。広重は得意の俯瞰(ふかん)で、紅く染まった楓(カエデ)と松が池に映り込む情景を描いている。『江戸名所図会』(1836刊)に「社頭に青松 丹楓(たんぷう)おほし。晩秋の頃  池水に映じて 錦をあらふがごとく 奇観たり」とあるので、それを錦絵で表現したのだろう。秋の静けさの中に、甲高いヒヨドリの鳴き声が聞こえてきそうな秀作である。

『江戸名所図会』(国会図書館蔵)の「請地秋葉権現宮千代世稲荷社」。中央を通る道の右に秋葉稲荷両社の境内、左に別当の満願寺と林泉を描いている
『江戸名所図会』(国会図書館蔵)の「請地秋葉権現宮千代世稲荷社」。中央を通る道の右に秋葉稲荷両社の境内、左に別当の満願寺と林泉を描いている

名所江戸百景では桜が20景も登場するのに対し、紅葉はわずか4景だけ。水面に影が映る絵も3景しかないので、この絵は希少な1枚といえよう。また、手前岸のあずまやでは剃髪した男が絵筆を握っているが、これは広重自身だという説もある。広重は自画像を残していないため、もし本当ならさらに貴重な一枚となるだろう。

秋葉神社の本殿は、現在も江戸時代とほぼ同じ場所にあるが、1868(明治元)年に満願寺が廃寺となったために林泉は消え、境内も大幅に縮小された。神社のすぐ北を国道6号(水戸街道)が横切り、周辺にはビルや住宅が立ち並び、自然豊かな秋葉山が存在したことを想像することさえ難しい。何度もロケハンに出掛け、かつて林泉だったと思われる児童公園なども巡ったが、絵になる場所や水辺はついぞ見当たらなかった。やむなく晩秋の神社境内で、色づいた楓と御神木をフレームに収めてシャッターを切った。絵筆を握る手前岸の人物をコラージュし、広重が現代の風景を見たらどう感じるだろうと想像しながら作品とした。

関連情報

向島、請地

請地という地名は、中世の荘園制の時代に地頭の管理地「請地」だったからだとか、湿地帯の「浮き地」であったことに由来するなどと言われる。いずれにせよ、徳川幕府が開かれる以前から存在する、古い地名であることは間違いないだろう。

現在でも秋葉神社に「海抜-0.4メートル」の標示があるが、家康が江戸に入った頃の隅田川東岸は、葦が茂った広大な砂州と海だったそうだ。かつては牛島、寺島、柳島という地名が存在したことから、満潮時でも水没しない土地を「島」と呼んでいたと推測でき、「浮き地」説にも一理ある。江戸時代から、この界隈を向島と呼ぶが、古地図の町名や村名に「向島」の文字は見つからず、広域を指す呼称だったようだ。由来については諸説あるが、隅田川西岸の浅草などに住む人々が、対岸の島々を総じて「向島」と呼ぶようになったのではないだろうか。

江戸時代の向島は景勝地として知られ、武士、町人を問わず風流人がよく訪れたという。秋葉大権現以外にも、牛島の総鎮守である牛の御前(現・牛島神社)、三井越後屋が江戸での守護神とした三囲稲荷(みめぐりいなり、現・三囲神社)、桜餅で有名な長命寺などが人気だったという。料理店や茶屋も増え、鯉(コイ)などの川魚料理で知られた秋葉権現前の武蔵屋や大七、三囲稲荷前の会席料理店・平岩などは当時の地図にも記載がある。

尾張屋版『江戸切絵図』(国会図書館蔵、1856刊)の「隅田川向島絵図」より、向島周辺を切り抜き、北を上にした。中央右の黄色地の場所が秋葉大権現。東京スカイツリーは、右下の小梅村と書かれた辺りに立つ
尾張屋版『江戸切絵図』(国会図書館蔵、1856刊)の「隅田川向島絵図」より、向島周辺を切り抜き、北を上にした。中央右の黄色地の場所が秋葉大権現。東京スカイツリーは、右下の小梅村と書かれた辺りに立つ

向島といえば、芸者を思い浮かべる人もいるだろう。三囲稲荷近くの隅堤から描いた『真乳山山谷堀夜景』にも芸妓らしき人物が登場するが、広重の時代には吉原に近い対岸の山谷堀に比べれば静かな場所だったようだ。向島の花街は、妓楼遊びからお座敷遊びへと嗜好(しこう)が変わる明治に入ってから急速に発展する。最盛期には料亭が100軒、芸妓は1000人を超えたという。1891(明治24)年からは「向島」が正式な地名に使用され、請地も1964(昭和39)年に廃止されるまで「向島請地町」となった。向島の花街は、戦後に衰退していくが、今でも料亭や置き屋、芸妓、見番(向島墨堤組合)が残り、花柳界伝統の「おもてなし」文化を守り続けている。

隅田川沿いは8代将軍吉宗の時代から花見の名所として知られ、隅田公園(墨田区側)となった今も桜の季節には多くの人でにぎわう。水戸徳川家の下屋敷だった公園の南側には池を配した日本庭園があり、晩秋には紅葉が池に映って「錦をあらうがごとく」の景色を楽しむこともできる。

隅田公園(墨田区側)の南部、かつて水戸徳川家の屋敷だった一角にある日本庭園
隅田公園(墨田区側)の南部、かつて水戸徳川家の屋敷だった一角にある日本庭園

浮世写真家 喜千也「名所江戸百景」——広重目線で眺めた東京の今
「名所江戸百景」は、ゴッホやモネなどに影響を与たことで知られる浮世絵師・歌川広重(うたがわ・ひろしげ)の傑作シリーズ。 安政3年(1856年)から5年にかけて、最晩年の広重が四季折々の江戸の風景を描いた。大胆な構図、高所からの見下ろしたような鳥瞰(ちょうかん)、鮮やかな色彩などを用いて生み出された独創的な絵は、世界的に高い評価を得ている。その名所の数々を、浮世絵と同じ場所、同じ季節、同じアングルで、現代の東京として切り取ろうと試みているのが、浮世写真家を名乗る喜千也氏。この連載では、彼のアート作品と古地図の知識、江戸雑学によって、東京と江戸の名所を巡って行く。

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