『にい宿のわたし』:浮世写真家 喜千也の「名所江戸百景」第76回
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東向きか、西向きかで論争呼ぶ川沿いの風景
葛飾区亀有の東、金町の西にある新宿(にいじゅく)は、かつて水戸街道最初の宿場町として大いに繁栄していたという。江戸時代の水戸街道は、日光街道と奥州街道が通る千住宿(現・足立区千住)を起点とし、御三家の水戸徳川家の領地へと続き、五街道に準じる主要道路であった。新宿は「佐倉街道(別名・成田道)」との分岐点でもあるので、成田詣に向かう江戸っ子らも多く立ち寄ったようだ。
新宿と亀有の間には中川が流れている。江戸の防衛上の理由などから、当時の中川には上流から河口まで橋は1本もなく、対岸に渡るには舟を利用した。広重は両岸を結ぶ「新宿の渡し」の渡船場を描いている。行政においては江戸の外であったが、さらに東の江戸川まで関所が無かったため、旅人にとっては江戸の中にいる感覚だったのかもしれない。
中川が大きく横たわり、手前岸には大きな料理屋、対岸には農村が広がり、遠くに山が望めるというのどかな風景だ。凡庸と評価されることも多いが、研究者や浮世絵ファンの間では「広重は亀有から東向きに描いた」「いや、新宿側から西を眺めている」と、熱い論争を巻き起こしてきた。
東向き説では、左上の山は筑波山あるいは日光連山で、手前左の2階建ては「千馬田屋(ちばたや)」という有名な川魚料理店とされる。荷を積んでいる船は下流の江戸中心地に向かっているだろうから、手前が亀有で対岸が新宿だとなるのだ。西向き説は、新宿側にも似たような料理屋や旅籠(はたご)があり、左上の山の形から西方の秩父山地ではないかなどと主張する。
現在、新宿の渡し船が行き来した辺りには中川橋が架かる。東西両側からそれぞれの景色を眺め、地図とにらめっこした結果、筆者は東向き説を推す。最大の理由は、広重が江戸周辺の渡船場を描くときのパターンである。名所江戸百景では江戸周辺の渡船場や橋の絵をいくつか描いているが、その全てが江戸から外側を向いているのだ。
山影は筑波山ではなく、その南東にある筑波連山の一角と考えている。中川橋の西詰、亀有側から見ると、筑波山は川の上流より左に見えるはずで、広重の描く筑波山は男体山と女体山の2つの頂きをもっとはっきりと描くからだ。題箋の下に小さく描かれた村は、街道沿いの隣村・金町の集落ではないだろうか。
穏やかな秋の日に中川橋西詰に赴き、北東に向かってシャッターを切った。左端タワーマンションの延長線上は筑波連山の南東端となり、右側にそびえる高層ビルは、金町駅前にある。中川を下る河川用タンカーを、江戸へ向かう荷船の面影と重ねながら作品とした。
●関連情報
新宿、亀有、金町
筆者自身、葛飾区新宿という地名は、この絵について調べるまで知らなかったが、江戸時代には宿場町として栄えていたという。当時は田畑が広がっていた亀有の方が、今でははるかに有名になっている。
新宿の渡しは1884(明治17)年、中川橋が完成したことで役割を終えた。町の収入源を確保するために、通行料を徴収する有料橋としたそうだ。19世紀末に日本鉄道(現・JR東日本)が路線を通すことになり、「新宿」駅開設の計画を立てたが、橋の通行料収入を減らしたくないと反対され、やむなく川の西側の亀有と東に隣接する金町に駅を設置したという。
その後、水戸や成田方面へは鉄道を利用するようになり、新宿を通る旅人は激減。亀有や金町は駅前を中心に発展したのに対し、駅のない新宿は取り残された。特に亀有は、「こち亀」こと漫画『こちら葛飾区亀有公園前派出所』の影響もあり、知名度は全国区に。その結果、所在地は新宿であっても、「〇〇亀有店」「××金町店」と名乗る店が多く、新宿4丁目にある警察署まで「亀有警察署」となったのだ。
そんな新宿だが、常磐線の北、金町駅に近い6丁目は宿場とは違う独自の発展をしてきた。1917(大正6)年に開業した三菱製紙中川工場は2003(平成15)年まで稼働し、金町駅周辺の発展に貢献した。工場閉鎖後の跡地は再開発が進み、葛飾にいじゅくみらい公園と東京理科大学葛飾キャンパスを中心に、マンションや商業施設、運動場などが一体となった複合街区となった。
かつての宿場町、新宿2丁目を歩いてみると閑静な住宅街で、宿場を取り囲むように点在していた神社仏閣も残る。亀有や金町、柴又を訪れた際には足を延ばし、歴史散歩をするのも一興だろう。