『小奈木川五本まつ』:浮世写真家 喜千也の「名所江戸百景」第74回
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真っすぐな運河をカーブさせた不思議な作品
「小奈木川」は、隅田川と旧中川を結ぶ「小名木川」のこと。徳川家康が江戸へ入府してすぐに、行徳(千葉県市川市)から江戸へ塩を運ぶために開削した運河である。利根川から江戸川を経由する水運ルートにも利用され、江戸以北の多様な物資が通過した。当初は塩を運んでいた「行徳船」は、17世紀後半には人も乗せるようになる。全盛期には行徳-日本橋小網町間を1日60隻以上が運航し、特に成田山詣でをする江戸っ子に重宝されたという。
行徳船が枝の下をくぐろうとしているのが「五本松」。この辺りに5本の松が並んでいたことから命名されたというが、幕末に一本松になっても「五本松」と呼ばれ続けた。綾部藩九鬼家の下屋敷(現・江東区猿江2丁目)から川面まで枝を張り出す姿は小名木川の名物で、広重も「稀代の名木」と称賛している。
老松を近景に大きく描き、広重は東を望んでいる。舟は日本橋方面に向かっているので、乗客は成田山からの帰りであろう。
この絵で必ず話題となるのが、川が右に大きく湾曲していること。今も昔も小名木川は直線的で、絵のようにカーブする場所は無いのだ。広重特有の遠近法とか、構図を面白くするためという説もあるが、天保年間に出版された『江戸名所図絵』(1834、36刊)と見比べてみると面白い。両方とも川が湾曲し、五本松の近くには乗合船が浮かび、客の1人が手ぬぐいを川に晒(さら)している。この符合から、江戸名所案内の先駆けに対する広重のオマージュが感じられる。
2つの作品の大きな違いは、川が湾曲する方向だ。江戸名所図会では左に、名所江戸百景では右にカーブする。五本松の東を当時の地図で見ると、北河岸には町屋が連なるのに対し、南河岸には新田や、庭に樹木が生い茂る大名の下屋敷が並んでいる。広重は五本松の緑を引き立たせることを意図し、長く続く町屋を背景にするために右へと湾曲させたのではないだろうか? そう考えると、墨摺りと錦絵、横と縦の構図の違いを計算し尽くした秀逸な作品といえるだろう。
広重が描いた五本松は、明治の終わりに枯死したそうだ。現在、小名木川と四つ目通りの交わる場所に架かる小名木川橋の北詰東側に「五本松跡」の碑があり、数本の松の木が植えられている。川に一番近い松は大きく育っているが、かつての五本松のように枝が張り出していない上に、川までの距離があり構図が作りづらい。脚立と長い一脚を準備し、かなり高所から松越しに川を見下ろしてシャッターを切った。遠景は川の南岸で、マンションが立ち並ぶ住宅地だが、雲一つない青空のおかげで松葉の緑が引き立つ写真となった。
●関連情報
小名木川、市川團十郎と成田詣で
全長5キロの小名木川は、家康の命によって開削にあたった小名木四郎兵衛にちなんで名付けられたという。旧中川と旧江戸川を結ぶ新川と共に、利根川水運ルートを形成する運河として、行徳の塩や東日本の物品を江戸へと運び込み、下総方面へと行楽に向かう人々にも利用された。
第65回『深川八まん山ひらき』でも触れたように、17世紀末から江戸っ子の間で、成田山新勝寺(千葉県成田市)の本尊・不動明王への参詣が流行した。その交通手段として行徳船が使われ、小名木川の風景は庶民にもよりなじみのあるものとなった。
成田詣でブームの火付け役は、歌舞伎の荒事芸を完成させた初代・市川團十郎(1660-1704)である。團十郎は子宝に恵まれず、新勝寺の薬師堂にこもって必死に祈願したそうだ。すると、2代目となる男子がすぐに誕生する。その後、團十郎は不動明王をテーマにした演目を次々とヒットさせ、息子との共演も話題を呼び、市川家は「成田屋」を号するようになった。
成田屋の隆盛を目の当たりにした江戸庶民の間で、お不動様のご利益と観光を目的に成田詣でが流行する。同時期には、成田山出開帳が深川の永代寺で始まり、開催に合わせて團十郎も不動明王を演じたことで、ますます信奉者が増えたという。成田屋は2代目以降も、病の治癒、子宝などの祈願で度々新勝寺を訪れたため、江戸時代を通じて話題を振りまき、成田参詣はまさに不動の人気であった。
明治期に入り、鉄道の発達によって行徳船はその役割を終え、大正時代に姿を消す。現在の小名木川に運河としての役割はほとんどないが、その水辺の風景は地域住民に愛されている。小名木川と横十間川の交差する川の辻、広重の絵に小さく描いてある大島橋の地点に、現在は小名木川クローバー橋が架かる。X型の歩行者・自転車専用橋で、独特のデザインから度々ドラマのロケ地になり、美しくスカイツリーを望める名所としても知られる。小名木川沿いには「塩の道」という遊歩道、横十間川には親水公園が整備してあり、ハゼ釣りを楽しむ人や、家族連れの憩いの場となっている。