『鉄砲洲築地門跡』:浮世写真家 喜千也の「名所江戸百景」第72回

歴史

歌川広重『名所江戸百景』では第78景となる「鉄砲洲築地門跡(てっぽうずつきじもんぜき)」。佃島の南の海上から築地本願寺を描いた、広重の遊び心を感じさせる一枚である

築地のアイコン・本願寺の完成予想図!?

「鉄砲洲」とは、現在の中央区湊(みなと)から明石町にかけての隅田川沿いの地域を指す。日本橋川の支流・亀島川の河口左岸(南側)に位置し、江戸時代初期までは砂州が広がっていた場所だ。名称の由来には、砂州の形が鉄砲に似ていたというものや、幕府の鉄砲方が訓練をしていたという説などがある。今日まで、町名や住所に「鉄砲洲」が使われたことはないが、今でも湊には鉄砲洲通りがあり、道沿いの「鉄砲洲稲荷神社」「鉄砲洲児童公園」などに名を残している。

築地門跡は、京都・西本願寺を本山とする浄土真宗本願寺派の江戸別院で、現在の築地本願寺のこと。広重の時代の地図には単に「西本願寺」と記してあるが、一般には「築地門跡」や「築地御坊」などと呼ばれていたようだ。本願寺の大屋根は、その巨大さゆえに遠くからでも見え、名所江戸百景でも「霞がせき」や「芝愛宕山」、「芝金杉橋」の風景の中に登場する。江戸っ子にとっては築地のランドマークで、船乗りにとっては江戸湊へ向かう目印だったようだ。

安政改正大江戸図(国会図書館蔵)の一部を切り抜いた。青の破線内が一般的に鉄砲洲と呼ばれた地域。築地門跡を朱色の破線で囲った。広重が描いた推定地を黒い星で示した。右の島は北部が石川島、南部が佃島
『安政改正御江戸大絵図』(1858年、国会図書館蔵)の一部を切り抜いた。青の破線内が一般的に鉄砲洲と呼ばれた地域。築地門跡を朱色の破線で囲った。広重が描いた推定地を黒い星で示した。右の島は北部が石川島、南部が佃島

広重は秋の景として、鉄砲洲沖、佃島近くの海上から西本願寺本堂を描いている。この絵の海沿いに並ぶ瓦屋根は、右手前が明石町、左奥は南飯田町といった町屋である。手前に描かれた2つの帆は、この付近の海運が盛んだったことを示すと同時に、遠景を引き立たせている。奥の帆船は荷を積んでいるので、右方向の江戸湊へ向かうところだろう。小さな舟は釣舟や投網舟で、明石町の手前にある石積みの防波堤にも2人の釣り人がいる。彼らが狙うのは、まさに江戸前の魚だ。

この絵の題箋には「江戸百景餘興(よきょう)」とある。名所江戸百景では112枚目に売り出されたため、100枚を大きく超えたことで「余興」としたとされるが、描いた風景の中にも広重の余興があるといわれている。絵が刷られたのは1858(安政5)年7月だが、築地本願寺の本堂は56(安政3)年の台風で倒壊しており、再建工事が完了したのは60(万延元)年11月のこと。つまり、この時点では「大伽藍の完成予想図」だったのだ。広重一流の粋な絵といえるが、それだけ本願寺は築地に欠かせないもので、早い再建が望まれた江戸のアイコンだったのだろう。

まだ暑さの残る秋の日に赴き、江戸時代には海上だった月島の隅田川テラスから、元絵と方角を合わせて撮影した。本願寺は今でも同じ場所にあるが、大きなビルに阻まれて全く見えない。しかし、かつての明石町南端に立つ料亭の瓦屋根、石垣を想起させるれんが塀が往時をしのばせる。釣り場へと向かうプレジャーボートや、撮影している近くにもスズキやクロダイなどを狙う釣り人の姿があり、江戸の漁場の面影が感じられた。

関連情報

築地の地名、築地本願寺

戦国時代、浄土真宗(一向宗)の総本山・石山本願寺は、大名に匹敵する強大な力を持ち、織田信長ですら攻略するのに手を焼いたことは有名である。その石山合戦を機に、第11代門主・顕如上人の長男で抗戦派だった教如と三男で穏健派だった准如が2派に分かれていくのだが、豊臣秀吉と徳川家康は本願寺の力を削ぐために、内紛が続くように仕向けたといわれている。

石山本願寺の跡地に大坂城を築いた秀吉は、准如を正当な後継とし、京都に寺地を与えた。対して家康は教如と通じ、1602(慶長7)年に京都・本願寺のすぐ東に寺領を寄進している。その結果、「西本願寺」と「東本願寺」という呼び名も定着していく。

京都・西本願寺の江戸別院が創建されたのは、家康崩御の翌年の1617(元和3)年だった。当初は浅草御門南の横山町(現・日本橋横山町)にあったが、明暦の大火(1657)で本堂が焼失してしまう。幕府に同地での再建を申し出たが、許可は下りず、代わりに与えられた寺領がなんと海の上だったのだ。

東本願寺を擁護する幕府の意地悪のようにもとれるが、未曾有の大火後で、江戸の急速な拡張もあり、町割りの大改造が進められていた。寺社だけでなく、大藩の大名たちも、江戸湾沿岸を埋め立てて屋敷を建てたのである。後に将軍家の浜御殿(現在の浜離宮恩賜公園)になる土地も、甲府徳川家に与えられた場所を埋め立てたのが始まりだ。東本願寺の江戸別院も、明暦の大火後に神田から浅草へと移転しているので、幕府の意地悪説はうのみにできない。

築地本願寺の土地を埋め立てたのは、家康が江戸の食料を調達するために、摂津国佃村(現・大阪市西淀川区)から呼び寄せた佃島の漁師たち。石山本願寺のお膝元から移り住んだために熱心な門徒が多く、総出で寺領を埋め立てて本堂を再建した。海上に土地を築いたことから、一帯は「築地」と呼ばれるようになったそうだ。

西本願寺本堂の大屋根は、修復を繰り返しながら明治維新後も残っていたが、1923(大正12)年9月1日に発生した関東大震災で焼失した。現在の本堂は、建築家・伊藤忠太がインドの古代仏教建築をイメージして設計し、1934(昭和9)年に完成したもので、江戸時代の築地のアイコンであった大屋根の面影は残っていない。

「築地」の名を世界に知らしめた、魚市場が移転して来たのも関東大震災がきっかけだ。江戸の魚市場は、17世紀の初めに佃島の漁師によって日本橋に開かれ、300年以上にわたって「日本橋魚河岸(うおがし)」として栄えた。しかし震災によって市場機能は壊滅。直後に芝浦の旧雑魚場(ざこば)で仮営業をするが、3カ月ほどで築地の海軍所有地を借り受けて臨時市場を開いている。そして、1935(昭和10)年、青果部も加えて東京市中央卸売市場築地本場が正式開業した。

日本が誇る「築地ブランド」は、その土地を最初に築いたのも、魚河岸という市場の礎を築いたのも、家康が摂津から呼び寄せた熱心な門徒たちだった。ひょっとすると、広重がこの絵を描いたのも、佃島の漁師が出した舟の上かもしれない。

築地本願寺は日本の寺院としては斬新な意匠で、築地という土地柄も手伝って、多くの外国人観光客が見学やイベントに訪れていた。柔軟な教えの浄土真宗らしく、コロナ禍でも法話や法要をネット配信するなど新しい試みを続けている
築地本願寺は日本の寺院としては斬新な意匠で、築地という土地柄も手伝って、多くの外国人観光客が見学やイベントに訪れていた。柔軟な教えの浄土真宗らしく、コロナ禍でも法話や法要をネット配信するなど新しい試みを続けている

浮世写真家 喜千也「名所江戸百景」——広重目線で眺めた東京の今
「名所江戸百景」は、ゴッホやモネなどに影響を与たことで知られる浮世絵師・歌川広重(うたがわ・ひろしげ)の傑作シリーズ。 安政3年(1856年)から5年にかけて、最晩年の広重が四季折々の江戸の風景を描いた。大胆な構図、高所からの見下ろしたような鳥瞰(ちょうかん)、鮮やかな色彩などを用いて生み出された独創的な絵は、世界的に高い評価を得ている。その名所の数々を、浮世絵と同じ場所、同じ季節、同じアングルで、現代の東京として切り取ろうと試みているのが、浮世写真家を名乗る喜千也氏。この連載では、彼のアート作品と古地図の知識、江戸雑学によって、東京と江戸の名所を巡って行く。

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