『高輪うしまち』:浮世写真家 喜千也の「名所江戸百景」第71回

歴史

歌川広重『名所江戸百景』では第81景となる「高輪うしまち」。東海道の江戸の玄関口で、様変わりする海と美しい虹を描いた一枚である。

円弧を印象的に配置した広重が、虹に込めた思い

「高輪うしまち」とは、現在の港区高輪2丁目北部にあった「車町」のこと。都営浅草線「泉岳寺」駅の真上辺りで、JR山手線の新駅「高輪ゲートウェイ」の目の前だ。東海道(現・国道15号「第1京浜」)の西側沿いの町で、当時は道の東側に江戸湾が広がっていた。

寛永年間(1624-44)に3代将軍・徳川家光は、菩提寺の芝・増上寺内に家康の尊像を祀る「安国殿」や秀忠の霊廟「台徳院殿」を建立した。その際、巨大な石や大量の木材を運ぶために、京都の四条車町などから牛持人足を呼び寄せている。以後も、市ヶ谷見附の石垣建築などで活躍したため、幕府は江戸での牛車運搬の権利と、拠点として「車町」の土地を与えた。当時は東海道の江戸の玄関だった「札の辻」(現・港区芝5丁目、札の辻交差点)の外で、江戸湾の廻船からの荷も積み込みやすい場所であった。

『安政改正御江戸大絵図』(1858年、国会図書館蔵)より車町(うしまち)周辺を切り抜いた。この時代の地図の多くは、武家屋敷が白、寺社地がオレンジ、町家がグレーで表す。車町を黒の破線で囲み、高輪大木戸の石垣をピンク、札の辻を紫で色付けした。緑の破線は、高輪ゲートウェイ駅の推定位置
『安政改正御江戸大絵図』(1858年、国会図書館蔵)より車町(うしまち)周辺を切り抜いた。この時代の地図の多くは、武家屋敷が白、寺社地がオレンジ、町家がグレーで表す。車町を黒の破線で囲み、高輪大木戸の石垣をピンク、札の辻を紫で色付けした。海上の緑の破線は、高輪ゲートウェイ駅の推定位置

車町の最盛期だった18世紀初頭には、牛が1000頭以上もいたので、庶民は「うしまち」と呼んだそうだ。牛小屋は車町だけでなく、南の八ツ山下(現・高輪4丁目)辺りまで点在しており、子どもの間では「高輪牛町十八丁、牛の小便長いネー」という戯れ歌が流行したという。

春には潮干狩り客でにぎわい、庶民が食べる小ぶりの大衆魚を扱う市場「雑魚場(ざこば)」も開かれ、夜は月見の名所であった。広重は、東海道から江戸湾を望み、「高輪」の「輪」に引っ掛けたのだろうか、近景の牛車の車輪を枠として、空にかかる虹の円弧を対比するように描いている。風を受けて同じ向きに膨らむ船の帆や、食べ捨てたスイカの皮などの曲面も印象的に配置しているのが秀逸だ。車夫のわらじにじゃれる犬の尻も、丸みを帯びているのがおかしい。名所江戸百景には俯瞰で描いたものが多いのだが、この絵では犬の目線に近い、地面すれすれからのローアングルで虹を見上げている。

現在の第1京浜沿いにはビルが立ち並んでいる。2015年にロケハンをして、唯一空が開けていた有料駐車場で撮影するしかないと決めたが、その後、なかなか虹が出てくれない。高輪ゲートウェイ駅の建設工事も始まってしまったので、18年に虹なしで車のタイヤ越しに撮影しておくことにした。この辺りは自動車ディーラーが多く、駐車場には試乗車も並んでいて、かつての「車町」の町名にふさわしい場所に思えた。そして、しばらくすると予想通り、駐車場は閉鎖された。

ようやく虹を撮影できたのは20年5月、コロナ流行による緊急事態宣言下で、外出を控えていた頃だ。うつむきがちな日々を過ごす中、自宅マンションの屋上から久しぶりに空を見上げ、高輪方面に出た大きな虹に感動しつつシャッターを切った。

広重が実際に高輪で虹を見たかどうかは定かではない。ただ、虹の下の海には黒船を迎え撃つために築かれたばかりの品川台場があり、この絵を描いた前年には安政江戸地震によって甚大な被害も出ている。天下太平が250年続いた江戸の町に暗雲が立ち込める中、広重は明るい未来への懸け橋として虹を描き足したのではないかと、自分の気持ちに重ね合わせながら想像し、元の写真に虹を合成して作品に仕上げた。

関連情報

高輪大木戸、泉岳寺、高輪ゲートウェイ駅

「うしまち」と呼ばれた車町がにぎわったもう一つの理由は、「高輪大木戸」があったためだ。

江戸時代初期には、幕府からの布告を掲示する高札場があった「札の辻」を、東海道の玄関口としていた。今でも港区三田3丁目と芝5丁目の境の交差点に、札の辻という名が残っている。1710(宝永7)年、その約700メートル南の車町北部に江戸の玄関口を移し、高輪大木戸を築いた。幕府は防衛・防犯のため、江戸各町の境界に木戸を設けて夜間の移動を制限したが、街道沿いの特に立派なものを大木戸と呼んだ。高輪大木戸は甲州街道の四谷大木戸と並び、その代表格である。

江戸から東海道を旅立つ人を見送り、江戸に入るのを待つ場として栄え、茶屋や料理屋が立ち並んだ。東海道を行き来する人が格段に増えた江戸時代後期には、高札場と石垣だけを残して大木戸の門扉は取り払われ、にぎわいは幕末まで続いたようだ。海に面した東側の石垣は、今でも第1京浜の歩道に残り、当時をしのぶことができる。

泉岳寺駅北側に残る「高輪大木戸跡」の石垣
泉岳寺駅北側に残る「高輪大木戸跡」の石垣

左は1863(文久3)年刊の河鍋暁斎『東海道 高縄牛ご屋』、右は同時期に描かれた二代広重の『高輪大木戸』(共に国会図書館蔵)。暁斎の絵の右上にも、門扉が取り払われた高輪大木戸の石垣が見える。その少し南から描いた二代広重の絵の石垣は、高輪大木戸跡と全く同じ形状。背後には江戸湾が広がっている
左は1863(文久3)年刊の河鍋暁斎(惺々周麿)『東海道 高縄牛ご屋』、右は同時期に描かれた二代広重の『高輪大木戸』(共に国会図書館蔵)。暁斎の絵の右上にも、門扉が取り払われた高輪大木戸の石垣が見える。その少し南から描いた二代広重の絵の石垣は、高輪大木戸跡と全く同じ形状。背後には江戸湾が広がっている

車町の南部は、現在の第1京浜・泉岳寺交差点付近だった。泉岳寺は忠臣蔵でおなじみの浅野内匠頭長矩(あさのたくみのかみながのり)、大石内蔵助をはじめとする赤穂浪士(四十七士)の墓があることで知られる。1748(寛延元)年に浄瑠璃・歌舞伎の『仮名手本忠臣蔵』の上演が始まり、人気を博したことで多くの参拝客が訪れるようになった。上の地図の泉岳寺の敷地内に「義士墓」の表記があることから、広重の時代も名所だったことが読み取れる。その参拝客も車町辺りで一休みしただろう。

2020年、偶然にも内匠頭の命日である3月14日に高輪ゲートウェイ駅が開業した。JR山手線では約50年ぶりの新駅であるが、最も話題を呼んだのは、その駅名である。「長い」「ダサい」「意味不明」などの反対意見があふれ、駅名撤回の署名運動まで起こったのだ。JR東日本によると、公募で一番人気だった「高輪」に、地域の再開発コンセプト「グローバルゲートウェイ品川」を組み合わせた上で、江戸の玄関口だった「高輪大木戸」のような交通拠点として「過去と未来、日本と世界、そして多くの人々をつなぐ」という意味があるという。まだ開発途中で、駅前の高層ビル群が立ち並ぶ2024年に本開業を予定している。かつての「高輪うしまち」が子どもの歌に登場したように、駅名が浸透するくらいのにぎわいとなるよう期待したい。

折り紙をモチーフにした屋根が印象的な隈研吾氏設計「高輪ゲートウェイ」駅舎
隈研吾氏設計の「高輪ゲートウェイ」駅舎。ふんだんに使用した木材と折り紙がモチーフの屋根が印象的

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