『中川口』:浮世写真家 喜千也の「名所江戸百景」第69回

歴史

歌川広重『名所江戸百景』では第60景となる「中川口」。水上交通の江戸の玄関口だった小名木川の中川口を行き来する舟と人々を描いた一枚である。

江戸っ子におなじみだった船番所付近の風景

川の四つ辻を描いた絵で、中央を左から右に流れる「中川」は、当時の江戸府内の最東部に位置し、向こう岸は江戸の外であった。縦の川は、手前が隅田川と中川を結ぶ「小名木川(おなぎがわ)」、奥が中川と江戸川を結ぶ「新川(しんかわ、別名:船堀川)」。いずれも徳川家康の江戸入府(1590)後に、下総の行徳塩田(現・千葉県市川市南部、浦安市北部)から塩を運ぶために開削された運河で、2つを合わせて「行徳川」とも呼んだという。

行徳から日本橋小網町まで塩を運んだ「行徳船(ぎょうとくぶね)」は、幕府の承認を得て、次第に他の物資や人も運搬するようになる。庶民に人気のあった成田詣など、行楽で江戸から下総方面に向かう際の交通手段となり、江戸末期には旅客用の船も含めて1日60隻以上が往復していたという。

家康の河川改修事業では、利根川の本流を銚子(ちょうし、千葉県銚子市)まで伸ばして太平洋に流れ出すようにした。そのため、東北方面から物資は、銚子で小さい船に乗せ換えられて、しょうゆなど下総の名産品と共に利根川を北西に進み、関宿(せきやど、千葉県野田市)で江戸川を南下し、新川を経由して江戸へと運ばれた。江戸の都市化と共に増加する貨客の監視と「改め」をするため、幕府は水運の関所である「船番所」を小名木川に設置。広重の時代には、中川と合流する手前の「中川口」に置かれていた。船番所の建物自体は絵には登場しておらず、左下に石垣と柵をわずかに描いただけだが、行徳船を利用した当時の人々には左枠外にある船番所全体の雰囲気が伝わったのだろう。

「中川船番所資料館」(江東区大島)で常設展示している原寸大ジオラマ。建屋左に描かれた周囲の風景の中に、広重の絵に登場する番所の柵が見える
「中川船番所資料館」(江東区大島)で常設展示している原寸大ジオラマ。建屋左に描かれた周囲の風景の中に、広重の絵に登場する番所の柵が見える

小名木川には2艘の川舟がすれ違い、江戸を出る方の乗客は皆、不安そうに船番所を向いているようにも見える。絵の一番下に接岸している苫(とま:舟を覆うむしろ)をかぶった舟は、塩や物資を運ぶもの。新川にも同様の舟が多数係留し、改めの順番を待っているようだ。

舟釣りを楽しむ姿が見える中川では、上流から下る3床の筏(いかだ)が印象的だ。この絵は夏の景だが、安政4(1857)年2月頃に刷られたものである。江戸では、その2年前の安政大地震、前年の台風によって多くの家屋が倒壊し、復旧には大量の木材を必要としていた。広重は絵の中央に大きく筏を描くことで、復興へと向かう人々の姿も伝えたかったのかもしれない。

小名木川と交わる地点の中川は、現在「旧中川」となり、新川は荒川までの間が埋め立てられてしまった。広重の俯瞰(ふかん)のように、なるべく高い位置から撮影したかったので、小名木川の河口近くに架かる番所橋に脚立を立て、一脚にセットしたカメラを持ち上げてみる。すると、「何をしているんですか?」と警官に声を掛けられた。名所江戸百景の絵を見せ、川の歴史や船番所の話をしたところ、「今朝も撮影している人を見かけたけど、昔は名所だったんですね」と感心して立ち去った。太陽を背にして撮ったので、左下に自分の影が写り込んでいるが、作品にはそのまま残している。

●関連情報

利根川東遷事業と水運、小松川閘門、中川船番所資料館

江戸の水運は、行徳からの塩の運搬に始まったといえる。徳川家康が江戸へ入府したのは、まだ関ヶ原の合戦(1600年)前のこと。塩は、米や水と同様、籠城の際には最重要の兵糧であり、自領内での安定供給が不可欠なため、江戸近郊最大の生産地・行徳塩田からの輸送ルート確立が急務だったのだ。

関東で最も水量の多い利根川は、当時は隅田川や中川と交わりながら江戸湾に注いでおり、流域での水害が深刻だった。そのことも、家康が河川改修事業を最優先事項とした理由である。流路の架け替えや開削を行った「利根川東遷事業」(1621-54)によって、利根川は隅田川と切り離され、分流として江戸川も整備し、銚子で太平洋へ注ぐようにした。

完成後は、江戸の水害が大幅に減るとともに、銚子から江戸までの水運ルートが開通。さまざまな物資が運び込まれるようになったことで、船番所を小名木川に設置した。当初は隅田川と交わる萬年橋付近の「隅田口」にあったが、明暦の大火(1657)後に江戸の町が隅田川東岸へと広がったため、寛文元(1661)年に「中川口」へ移設したという。

1825(文政8)年作成の『東都近郊図』(国会図書館蔵)の江戸から行徳までを切り抜いた。紫の囲みが「本行徳」、黄色が「ゴバン所」で、黒点が日本橋小網町、行徳船の航路を青い線で示した。赤い破線は文政時代に定められた江戸府内の境界線
1825(文政8)年作成の『東都近郊図』(国会図書館蔵)の江戸から行徳までを切り抜いた。紫の囲みが「本行徳」、黄色が「ゴバン所」で、黒点が日本橋小網町、行徳船の航路を青い線で示した。赤い破線は文政時代(1818-30)に定められた江戸府内の境界線

船番所は陸の関所と同様の役割を持ち、特に江戸に銃器を持ち込む「入り鉄砲」と、人質である大名の妻女が江戸から脱出する「出女」を取り締まった。天下泰平の時代が長く続いたため、広重の時代には改めも形骸化していたようだが、江戸へ入る品目と数量を把握する役目を担ったというから、番所内は朝から晩まで大忙しだったであろう。

明治維新後に他の関所と同様、船番所は廃止となったが、利根川と江戸川、新川、小名木川といった物流ルートはそのまま使用された。しかし、鉄道の整備が進むに従い、物量は減っていく。昭和初期に荒川放水路が完成すると、中川は荒川に沿って東へと大きく流れを変えた。旧中川と荒川間の新川には、船の航行ができるように水位調整用の閘門(こうもん)が2つ設けられたが、自動車による物流の発達に伴い、その区間は完全に埋め立てられた。

現在、その一帯は大島小松川公園となり、小松川閘門の上部3分の1だけが残っている。遠目に見ると要塞の櫓(やぐら)のように見え、かつての新川の流れを想像する人はまれであろうが、それを伝える貴重な遺構である。船番所があった川岸と同じ区画には、江東区が「中川船番所資料館」を2003年に開設。番所の原寸大ジオラマ、江戸の水運や区の歴史に関する資料などを展示している。

大島小松川公園に残る小松川閘門の上部。声を掛けてきた警官も、「あそこに櫓が見えますね」と言っていた
大島小松川公園に残る小松川閘門の上部。声を掛けてきた警官も「あそこに櫓が見えますね」と言っていた

浮世写真家 喜千也「名所江戸百景」——広重目線で眺めた東京の今
「名所江戸百景」は、ゴッホやモネなどに影響を与たことで知られる浮世絵師・歌川広重(うたがわ・ひろしげ)の傑作シリーズ。 安政3年(1856年)から5年にかけて、最晩年の広重が四季折々の江戸の風景を描いた。大胆な構図、高所からの見下ろしたような鳥瞰(ちょうかん)、鮮やかな色彩などを用いて生み出された独創的な絵は、世界的に高い評価を得ている。その名所の数々を、浮世絵と同じ場所、同じ季節、同じアングルで、現代の東京として切り取ろうと試みているのが、浮世写真家を名乗る喜千也氏。この連載では、彼のアート作品と古地図の知識、江戸雑学によって、東京と江戸の名所を巡って行く。

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