『昌平橋聖堂神田川』:浮世写真家 喜千也の「名所江戸百景」第67回

歴史

歌川広重『名所江戸百景』では第46景となる「昌平橋聖堂神田川」。坂道に段々の築地塀が並ぶ湯島の名所を、神田の昌平橋から描いた一枚である。

梅雨時期に描いた幕府直轄の学問所

画題にある「聖堂(せいどう)」とは、現在のJR御茶ノ水駅の近くにある「湯島聖堂」(文京区湯島1丁目)を指す。広重は昌平橋のたもとから、神田川越しに聖堂を望んでいる。

右下に橋の欄干、左に緑の崖を配して描き、近景を枠とすることで奥行きを出すお得意の構図だ。左の斜面は、江戸城の外堀でもあった神田川沿いの土塁で、詳しくは第63回『筋違内八ツ小路』で触れている。川向こうに見えるのは、当時の昌平坂(現・相生坂)で、聖堂の築地塀が印象的だ。傾斜に合わせて段々に並ぶ姿は、江戸名所の一つであっただろう。暗い雨空と深い緑の中、白い塀を浮き立たせることで、聖堂全体の存在感を表現しているかのようだ。

徳川家康から4代にわたって幕府の政治顧問を務めた儒学者・林羅山は、上野に屋敷と私塾を構えていた。そこにあった孔子を祀る「先聖殿」を、学問好きの5代将軍・綱吉が1690(元禄3)年に湯島に移築。「大成殿」と改称し、林家(りんけ)の私塾も設けられた敷地全体を「聖堂」とした。儒教の祖・孔子が生まれた中国の「昌平郷」にちなみ、地名も「昌平坂」となり、その坂下に架かる橋も「昌平橋」と呼ぶようになった。

第39回『大はしあたけの夕立』の中でも述べたが、黒船来航以降、幕府施設の詳細な描写への取り締まりは、特に厳しくなった。当時、湯島聖堂の敷地には幕府直轄の教育機関「昌平坂学問所(別名・昌平黌、しょうへいこう)」があったので、広重は雨を利用することで、聖堂自体をぼやかしたのかもしれない。いずれにせよ、蓑(みの)に身を包んで舟をこぐ船頭や、笠をかぶり淡々と往来する人々の様子から、それほど激しくない梅雨の長雨の景色だと伝える秀逸な一枚である。

写真は梅雨空の夕方に昌平橋で撮影した。ここは、秋葉原からのJR総武線(高架鉄橋)と、神田からのJR中央線(写真左端)が新宿に向かって並走を始める地点である。元絵と同じ方向にカメラを向けると総武線の鉄橋が目立つ。左にあった土塁は、明治40年代にレンガ造りの高架橋へと姿を変え、現在は高架下を活用したレトロな雰囲気の「BRICK MALL(ブリックモール)」に飲食店が並ぶ。湯島聖堂の築地塀は特徴的な意匠を残しているが、神田川沿いに建物が並ぶので、昌平橋からは全く見えない。総武線の下の建物の一部を切り抜き、同日に撮影した築地塀の画像をはめ込んで作品とした。

関連情報

湯島聖堂、昌平坂学問所、朱子学 

現在、広重が描いた坂は「相生坂」になり、相生坂から神田明神へと抜ける湯島聖堂東側の坂道が「昌平坂」となっている。相生坂に立つ説明板には、「相生坂(昌平坂)」とわざわざ書き添えられているので、現在も段々の築地塀がある坂の風景は、湯島聖堂の象徴となっているようだ。

『江戸名所図会』(1834、36刊)には今と同じ東側の坂に「昌平坂」と書いてあるが、当時は相生坂も「昌平坂」と呼ばれ、湯島聖堂の改築時になくなった敷地内の坂が「昌平坂」だったとも伝わる。しばしば「どれが本当の昌平坂か?」と議論になるが、前述の通り、当時は湯島聖堂付近を「昌平坂」と呼んでいたと考えておけば良さそうだ。

『江戸名所図会』の「聖堂」(国会図書館所蔵)。広重が描いた坂は画面下部を左右に走る道だが、右下の斜めの坂道に「昌平坂」の文字がある。左側の霞の上に「此辺学問所」とあるように、やはり幕府の施設は描いていない
『江戸名所図会』の「聖堂」(国会図書館所蔵)。広重が描いた坂は画面下部を左右に走る道だが、右下の斜めの坂道に「昌平坂」の文字がある。左側の霞の上に「此辺学問所」とあるように、やはり幕府の施設は描いていない

湯島聖堂は関東大震災でほぼ全壊し、現在の築地塀は1935(昭和10)年に大成殿と共に再建されたもの。倒壊した塀のがれきを拾い集め、復元修理に使用したという
湯島聖堂は関東大震災でほぼ全壊し、現在の築地塀は1935(昭和10)年に大成殿と共に再建されたもの。倒壊した塀のがれきを拾い集め、復元修理に使ったという

林家の家塾では、儒学の一派「朱子学」を中心に教えていた。朱子学は幕藩体制の基盤である主従関係や、士農工商ともいわれる身分制度を正当化するもの。湯島聖堂建立の際には、羅山の孫・鳳岡(ほうこう、信篤)は大学頭(だいがくのかみ)に任命され、幕末まで林家が世襲する。朱子学は一時下火となるが、老中・松平定信は寛政の改革(1787-93)で、朱子学のみを幕府の正学と定めた。広重が生まれた1797(寛政9)年、林家の私塾は幕府直轄となり、昌平坂学問所と名を改める。神田川の対岸は、多くの幕臣が住む武家屋敷街だったこともあり、幕府の教育機関を置くには最適な場所だったと言えよう。

幕末になると皮肉なことに、朱子学を基盤とした水戸学が、討幕勢力の唱える尊王攘夷思想に大きな影響を与えてしまう。「将軍の上に、天皇を仰ぐべき」となったのだ。2度目の黒船来航で、大学頭・林復斎(ふくさい)が日米和親条約を締結したことが引き金となって尊王攘夷が広がりつつある中、将軍家直参の御家人だった広重は幕府の行く末を案じながら、朱子学の殿堂・湯島聖堂を暗い夜雨の中に描いたのかもしれない。

昌平坂学問所は、明治4(1871)年に閉鎖される。湯島聖堂西側の跡地で、文部省、国立博物館、筑波大学前身の東京師範学校、御茶ノ水女子大学前身の東京女子師範学校などが設立され、近代教育発祥の地となった。関東大震災(1923)では、大成殿や築地塀を含む敷地内の多くの建物が壊滅し、文部省や大学などは移転。しかし、7年後には東京女子師範学校の跡地に東京医科歯科大学が移転してきたため、昌平坂学問所跡地は今でも国立の医学教育機関の一つとして続いている。

明治維新後、かつて武家屋敷街だった神田駿河台から一橋にかけては、次々と大学や教育機関が進出。現在も、JR御茶ノ水駅から地下鉄神保町駅の周辺にかけては、大学、専門学校、予備校や書店が多い。湯島聖堂は、その学生街の最北に今も鎮座している。大成殿を代表とする史跡を無料で見学でき、初詣や受験シーズンには合格祈願をする人々が目立つ。

受験生とその家族の姿が多かった正月の大成殿
受験生とその家族の姿が多かった正月の大成殿

浮世写真家 喜千也「名所江戸百景」——広重目線で眺めた東京の今
「名所江戸百景」は、ゴッホやモネなどに影響を与たことで知られる浮世絵師・歌川広重(うたがわ・ひろしげ)の傑作シリーズ。 安政3年(1856年)から5年にかけて、最晩年の広重が四季折々の江戸の風景を描いた。大胆な構図、高所からの見下ろしたような鳥瞰(ちょうかん)、鮮やかな色彩などを用いて生み出された独創的な絵は、世界的に高い評価を得ている。その名所の数々を、浮世絵と同じ場所、同じ季節、同じアングルで、現代の東京として切り取ろうと試みているのが、浮世写真家を名乗る喜千也氏。この連載では、彼のアート作品と古地図の知識、江戸雑学によって、東京と江戸の名所を巡って行く。

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