『廓中東雲』:浮世写真家 喜千也の「名所江戸百景」第59回

歌川広重「名所江戸百景」では第38景となる『廓中東雲(かくちゅうしののめ)』。桜が咲き誇る春の吉原遊郭から朝帰りする江戸っ子の姿に、今に通じる歓楽街の風景を見る。

古い町割りが残る吉原で、春の名物・桜並木に思いをはせる

「廓中」とは、江戸幕府が公認した唯一の遊郭だった「吉原」門内のことだ。吉原遊郭があったのは浅草の北、「浅草田圃」(あさくさたんぼ、現・台東区千束)と呼ばれた場所で、堀と高い塀に囲まれていた。

毎年春になると、吉原のメインストリート「仲之町(なかのちょう)」には、客寄せのためにたくさんの桜の木が植えられた。常に桜があるのではなく、その時期だけ移植して竹垣で囲み、ぼんぼりの明かりで照らしたというのだから、当時の吉原の盛況ぶりがうかがえる。その満開の桜並木を、広重に限らず、多くの浮世絵師たちが描いている。この絵は題名の通り、日の出前に東の空が明るくなる時間帯「東雲(しののめ)」の情景である。

吉原へ通う客は、大門(おおもん)から遊郭へと入る。火事などに備えていくつかの門があったが、特別な場合を除き、出入り可能なのは北東の大門だけであった。その大門は、「夜九つ(春分時期は午後11時50分頃)」には閉められてしまう。遊びに夢中でその時刻を過ぎてしまった客は、空が明るくなり始める「明け六つ(同午前5時10分頃)」に門が開くまで出られず、朝帰りを余儀なくされた。

そんな吉原の早朝を描いたのが、『廓中東雲』である。吉原には仲之町の両脇に、町が計7つ並んでいた。桜が植えられた左右方向に通る道が仲之町、木戸の奥に続く道沿いが角町(すみちょう)と言われている。遊女に見送られる客らは、まだ寒いのか、それともばつが悪いのか、手ぬぐいで頬被りをしたり、頭巾をかぶったりしている。

広重作『東都名所 新吉原五丁町弥生花盛全図』(国会図書館蔵)。大判3枚の組み絵を並べた。左下が大門で、桜並木に面する店までが仲之町。『廓中東雲』は、画面中央の辻にある桜の右下から、左上方向の門を眺めている構図と思われる
広重作『東都名所 新吉原五丁町弥生花盛全図』(国会図書館蔵)。大判3枚の組み絵を並べた。左下が大門で、桜並木に面する店までが仲之町。『廓中東雲』は、画面中央の辻にある桜の右下から、左上方向の門を眺めている構図と思われる

今の吉原に塀や門はないが、町割りは当時のまま。「仲之町通り」「角町通り」と、かつての町名の名残があり、古地図ともたやすく照合できる。その一帯に風俗店やホテル、喫茶店などがひしめく。朝方の風俗街の姿が想像できず、一人では心細く、撮影当日は友人に同行してもらった。

しかし、4時半頃に到着すると、吉原の町には人っ子一人いなかった。かつては大門が閉じられたが、現在は「風俗営業等の規制及び業務の適正化等に関する法律(風営法)」によって営業が禁じられている午前0時から6時まで、店ごとにシャッターを下ろすようだ。江戸時代も現在も同じで、ルールを遵守しないと、歓楽街は存続しえないのだろう。

5時を過ぎると、東の空は美しいグラデーションに変わり、闇に隠れていたスカイツリーも浮かび上がってきたのでシャッターを切った。元絵と似た構図の写真に、吉原公園に咲いていた満開の桜を合成して作品に仕上げた。

●関連情報

吉原の町割り、江戸時代の時刻

吉原遊郭には厳しい作法やしきたりが数多くあったが、この絵が描かれた幕末にはだいぶ簡略化していたようだ。しかし、町割りだけは、1657(明暦3)年に元吉原(日本橋人形町付近)から新吉原に移転し、1668(寛文8)年に伏見町の区画が追加されてから、幾度かの大火、関東大震災、東京大空襲などを経験しながらも、ほとんど変わらずに残っている。

郭内真ん中を走る大通り沿いの仲之町には、食事を提供し、遊女と妓楼のあっせんをする「引き手茶屋」が軒を連ねていた。幕末に慣習がルーズになってからも、引き手茶屋の紹介なしには、高級遊女「花魁(おいらん)」に相手はしてもらえなかったという。大勢の供を引き連れて練り歩く花魁道中は、妓楼と引き手茶屋を行き来する際のパレードのようなものである。

花魁がいる高級妓楼は、江戸町(えどちょう)1丁目と2丁目、角町、京町(きょうまち)1丁目と2丁目という5つの町にあった。伏見町には、間口の狭い低価格な妓楼が並んでいた。揚屋町は特殊な区画で、吉原で働く人の長屋や商店が軒を連ねていたが、幕末には狭い長屋の中に最低価格の妓楼もあったようだ。明治維新後も存続した吉原遊郭は、1957(昭和32)年の売春防止法施行によって幕を閉じる。

現在は、昭和の香りが漂う風俗店、ホテルが連なる独持な雰囲気のエリアだ。江戸の流行や芸術に大きな影響を与えた吉原の歴史や文化を継承しようという活動があり、旅行会社などが昼間に開催する「吉原観光ツアー」も人気が高い。

江戸時代の時刻は、時を知らせる鐘が鳴る回数で表すのが一般的だった。昼の時間の真ん中(正午頃)に9回鐘が鳴り、これが昼の「九つ」と呼ばれる時刻。その後、一刻(いっとき)ごとに鐘は1回ずつ減り、「四つ」の次に夜の「九つ」を迎える。つまり、昼と夜を6等分ずつにするのだが、不定時法という時刻制度で、春夏秋冬を6等分した二十四節気の季節ごとに、昼間と夜の長さ、一刻の長さまで変わっていく。

昼は日の出からでなく、その前に空が明るくなる東雲から始まる。昼の終わりも日没ではなく、夕暮れが終わり真っ暗になる頃まで。それぞれを「明け六つ」「暮れ六つ」と呼び、その間を6等分する。その結果、夏は昼の時間が長く、夜は短くなり、夏至の頃には昼の一刻が2時間半以上、夜の一刻は1時間半未満となる。

日の出入りに伴う時刻の変化なので、その中間「九つ」は現在の正午や午前0時ちょうどにはならない
日の出入りに伴う時刻の変化なので、その中間「九つ」は現在の正午や午前0時ちょうどにはならない

商家の奉公人は、「明け六つ」から「暮れ六つ」まで働いたそうだ。夏の労働時間は長く、冬は短めになる。つまり、吉原遊郭でも、夏は出入りできる時間が長く、冬は短かったことになる。時間に追われる現代人には違和感があるが、夜にろうそくや油を使う江戸時代には、倹約や火事よけの観点などからも合理的だったようだ。

実は風営法では、つい最近の2016年まで営業禁止時間が午前0時から「日の出」までだった。つまり、吉原遊郭の大門が閉まっていたのと同時間帯で、どちらも季節ごとに営業業時間が長短していたのだから面白い。お上が考える「風紀が乱れる時間帯」は、今も昔も変わらないのだろう。

浮世写真家 喜千也「名所江戸百景」——広重目線で眺めた東京の今
「名所江戸百景」は、ゴッホやモネなどに影響を与たことで知られる浮世絵師・歌川広重(うたがわ・ひろしげ)の傑作シリーズ。 安政3年(1856年)から5年にかけて、最晩年の広重が四季折々の江戸の風景を描いた。大胆な構図、高所からの見下ろしたような鳥瞰(ちょうかん)、鮮やかな色彩などを用いて生み出された独創的な絵は、世界的に高い評価を得ている。その名所の数々を、浮世絵と同じ場所、同じ季節、同じアングルで、現代の東京として切り取ろうと試みているのが、浮世写真家を名乗る喜千也氏。この連載では、彼のアート作品と古地図の知識、江戸雑学によって、東京と江戸の名所を巡って行く。

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