『目黒太鼓橋夕日の岡』:浮世写真家 喜千也の「名所江戸百景」第57回

歌川広重「名所江戸百景」では第111景となる『目黒太鼓橋夕日の岡』。江戸の行楽地だった目黒不動尊への道筋にあった、名高い急斜面と石造りの太鼓橋を描いた1枚である。

広重が目黒詣での名所を雪景色で描いた訳とは?

江戸時代の行楽は、信仰と対をなすものであった。道中の景勝地に立ち寄り、門前町の名物を味わうなど、お目当てはさまざまだ。寺社の境内そのものが物見遊山の対象になる場合もあって、目黒不動尊はその代表格だろう。徳川家のあつい保護の下、壮麗な伽藍(がらん)が立ち並び、それらを眺めに人々が押し寄せたようだ。

江戸の町中から目黒不動尊に参詣する人は、行人坂(ぎょうにんざか)を下って、目黒川に架かる石造りの太鼓橋を渡ったという。行人坂は、白金台町(現・港区白金台)から続く台地の西端(現・目黒駅辺り)にあたる急斜面にある。西日で輝く木々が美しいことから「夕日の岡」と呼ばれ、紅葉時期は特に見事で行楽客が集まった。

『名所江戸百景』にはこれも含めて5枚の目黒の絵があるが、ランドマークであった目黒不動尊を1枚も描いていない。この作品でも太鼓橋と目黒川、夕日の岡を題材とし、さらに秋色に染まる風景ではなく、日の当たらない雪景を選んでいる。橋を渡る人々は皆、江戸市中に向かって歩いているので、目黒詣でからの帰り道であろう。かさや背中に積もる雪を見ると、降雪の激しさがうかがい知れ、景色などお構い無しといった様子で家路を急ぐ。

広重一流の天邪鬼な表現にも思えるが、江戸ガイドブックともいえる『絵本江戸土産』でも同じ場所の雪景を描いている。そちらには、「珍しい石造りの太鼓橋だが、幽邃(ゆうすい、奥深く静かなこと)の地・目黒にあるので、亀戸天神社の太鼓橋のように有名ではなく、工人は遺憾だろう」という解説文が添えてあるので、橋への愛着と職人たちへの敬意が感じられる。鉛色の空の雪景は、太鼓橋を際立たせるための演出ではないだろうか?

広重作『絵本江戸土産10編』の7編より(国会図書館蔵)。台地の上から見下ろし、自然豊かな目黒と富士山を描いた絵が多いので、変化をつけるために雪景としたという説もあるが、ほぼ同じシチュエーションの絵を描いているので、広重のお気に入りの風景に思える
広重作『絵本江戸土産10編』の7編より(国会図書館蔵)。台地の上から見下ろし、自然豊かな目黒と富士山を描いた絵が多いので、変化をつけるために雪景としたという説もある。しかし、ほぼ同じシチュエーションの絵を描いているので、広重のお気に入りの風景に思われる

作品の写真は、2018年1月の大雪の日に撮影した。名所江戸百景には8つの雪景があるので、東京では珍しい大雪が降ると大忙しだ。この日は5カ所を巡り、目黒は最後のロケ地だった。あらかじめ撮影場所は決めていたので、素早く脚立をセットして撮影を開始。前が見えなくなるほどの吹雪だったが、降りが弱まった瞬間を狙い、たて続けにシャッターを切った。方向は違うが、傘を差して家路を急ぐ人々が元絵の雰囲気と重なったので作品とした。

関連情報

目黒不動尊、行人坂、太鼓橋

目黒不動尊の開山は808(大同3)年と伝わり、不動明王を祀(まつ)る関東最古の霊場とされる。正式名称は「泰叡山護国院 瀧泉寺(りゅうせんじ)」で、護国院は徳川家の菩提寺であった東叡山寛永寺(台東区上野)の子院。1615(元和元)年の火災によって目黒不動尊の本堂などは焼失してしまうが、1630(寛永7)年に護国院の末寺となり、徳川家からあつい保護を受けるようになった。

そのきっかけは、鷹狩りである。目黒には将軍家の鷹場があり、特に鷹狩りを好んだ3代・家光は何度も訪れていた。ある日かわいがっていた鷹が行方不明になってしまったので、目黒不動尊に立ち寄って祈願すると、たちまち戻って来たという。喜んだ家光は目黒不動尊を深く崇敬するようになり、本堂や50以上の伽藍を造営させた。その後も、幕府からの後見は続き、代々の将軍が鷹狩りなどの折に参詣している。

目黒不動尊では、1811(文化8)年から1842(天保13)年まで幕府公認の富くじが開催され、毎月28日の縁日とともに江戸っ子たちでにぎわった。参道では竹の子飯や「目黒飴(あめ)」が人気だったという。現在も縁日は毎月28日で、門前や境内に多数の屋台が並ぶ。

行人坂は、今でも急な坂道だ。寛永時代、後に大円寺となる大日如来堂が坂の中腹に建てられ、多くの行者が集まったのが名の由来である。江戸の三大大火の一つ、1772(明和9)年の「明和の大火」が「目黒行人坂大火」とも呼ばれるのは、その火元が大円寺であったから。江戸の3分の2におよぶ武家屋敷や町家を焼き尽くし、火の手は千住(足立区)方面まで広がったというから想像を絶する。その責を問われ、1848(嘉永元)年まで再建の許可が出なかったという大円寺には、大火の犠牲者を供養するための五百羅漢など石仏群が現存する。かつて坂の頂上は富士見の名所として知られ、今でも冬晴れの早朝や夕暮れ時に富士山を望める。

目黒の太鼓橋は、太鼓の胴のように半円形に反った石橋で、1769(明和6)年に完成した。1920(大正9)年の豪雨によって崩落し、一時は木造橋が架けられたが、昭和初頭に鉄橋となる。1991(平成3)年、目黒川改修工事に伴って現在の橋が建造された。平らな橋となったが名称は「太鼓橋」のままで、側面には石橋のような装飾がある。よく見ると鉄製の欄干にも太鼓型のデザインが施され、石造りの太鼓橋時代へのリスペクトを感じるが、これまた気付く人は少ないであろう。

広重作『東都坂尽 目黒行人坂の図』(国会図書館蔵)。行人坂上にあったという「富士見茶屋」を描いている。緑の田んぼ、上半身裸のかごかき、かさをかぶった旅人などから、夏の景色であることがうかがえる
広重作『東都坂尽 目黒行人坂の図』(国会図書館蔵)。行人坂上にあったという「富士見茶屋」を描いている。緑の田んぼ、上半身裸のかごかき、かさをかぶった旅人などから、夏の景色であることがうかがえる

現在の行人坂上から富士を望む。30年ほど前までは、もっとよく見えていたはずだ。ビルの高層化が進む中、いつまでこの場所から富士が望めるだろうか?
現在の行人坂上から富士を望む。30年ほど前までは、もっとよく見えていたはずだ。ビルの高層化が進む中、いつまでこの場所から富士山が望めるだろうか?

浮世写真家 喜千也「名所江戸百景」——広重目線で眺めた東京の今
「名所江戸百景」は、ゴッホやモネなどに影響を与たことで知られる浮世絵師・歌川広重(うたがわ・ひろしげ)の傑作シリーズ。 安政3年(1856年)から5年にかけて、最晩年の広重が四季折々の江戸の風景を描いた。大胆な構図、高所からの見下ろしたような鳥瞰(ちょうかん)、鮮やかな色彩などを用いて生み出された独創的な絵は、世界的に高い評価を得ている。その名所の数々を、浮世絵と同じ場所、同じ季節、同じアングルで、現代の東京として切り取ろうと試みているのが、浮世写真家を名乗る喜千也氏。この連載では、彼のアート作品と古地図の知識、江戸雑学によって、東京と江戸の名所を巡って行く。

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