『芝うらの風景』:浮世写真家 喜千也の「名所江戸百景」第53回
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幕末の江戸湾の雰囲気を見事に表現
江戸時代の隅田川河口は、永代橋の南にある霊岸島(れいがんじま)付近で、そこから江戸湾が広がっていた。月島や勝どきなどの埋め立て地はまだない。築地から高輪にかけての海岸沿いには大名屋敷が立ち並び、その多くは海を望める庭園などを設けた下屋敷で、
広重の絵は、築地近くの海上から芝浦方面を望んでいる。左奥には、ペリー来航直後に建設された3つの台場が見える。右側に描かれた石垣には諸説ある。現在の浜離宮恩賜庭園、当時の「浜御殿」というのが有力だが、浜御殿の石垣はほぼ直線なので、いくつかの屋敷を描いたとする説もある。
近くのユリカモメと、航路を示す澪標(みおつくし)を大きく描き、遠近感を出す名所江戸百景らしい構図だ。大小の船が秩序正しく航行する一見のどかな景色に、黒船を迎え撃つために築かれた品川台場を描き込むことで、開国か攘夷(じょうい)かで揺れていた、幕末の江戸湾沿岸の雰囲気を伝えている。
しかし、この絵は名所江戸百景の初期の作品で、多くの研究者が「まだ遠景と近景を対比させる構図が、広重自身のものになっていない」と評している。確かに、奥に見える澪標と右側を通る船のサイズが不釣り合いで、遠く離れた品川の台場も大きすぎるように思える。もし、石垣の比率もおかしければ、「いくつかの屋敷」説が正しい可能性も高くなるだろう。
どちらにしろ、現在もこの付近で石垣が残るのは、浜離宮恩賜庭園だけである。事前に何度かロケハンに出掛け、ユリカモメが飛来する冬場に水上バスの船上から撮影することにした。元絵で描かれた澪標の辺りは防波堤になっており、
●関連情報
浜離宮恩賜庭園、お台場
3代将軍・徳川家光の三男で甲府藩主だった松平綱重が、1654年に海を埋め立てて別邸を建てたのが浜離宮恩賜庭園の始まりとされる。綱重の長男・綱豊が6代将軍・家宣(いえのぶ)となったたので、将軍家直轄の「浜御殿」に変わった。その後は歴代将軍によって改修が繰り返され、11代・家斉の時代に現在の庭園の姿が完成したという。池に海水を引き、潮の干満によって趣が変わる様を楽しむ「潮入の池」が特に知られている。その周辺にあった「
明治維新で浜御殿全体が新政府に接収され、その後に宮内省管轄となって「浜離宮」と改称する。1945年11月に東京都の管理となり、翌年から「浜離宮恩賜庭園」として公開を開始。その後、国の特別名勝・特別史跡に指定された。
広重の絵に描かれる品川台場は、1853年のペリー来航直後、江戸湾の防衛強化のために建設された洋式海上砲台だ。高輪の八ツ山や御殿山を切り崩し、その土砂を使って埋め立てた。翌年末までに6基の台場が完成したが、この砲台から弾が発射されたことはなかったという。幕府所有の軍事施設のため、江戸の人々からは「御台場」と呼ばれた。
明治に入り軍の管轄となったが、大正時代に東京市や民間企業に払い下げられた。東京市は第三台場と第六台場を史跡として整備。特に第三台場は、「台場公園」として1928年から一般開放した。広重の絵にも描かれた他の台場は、航路確保のために一部は撤去されたが、埋め立て地を拡張する際の基礎として再利用された。
北部が台場公園とつながる13号埋立地は1979年に完成。現在は、商業施設やホテルが立ち並び、内外から多くの観光客が押し寄せる人気スポット「お台場」となっている。
浮世写真家 喜千也「名所江戸百景」——広重目線で眺めた東京の今
「名所江戸百景」は、ゴッホやモネなどに影響を与たことで知られる浮世絵師・歌川広重(うたがわ・ひろしげ)の傑作シリーズ。 安政3年(1856年)から5年にかけて、最晩年の広重が四季折々の江戸の風景を描いた。大胆な構図、高所からの見下ろしたような鳥瞰(ちょうかん)、鮮やかな色彩などを用いて生み出された独創的な絵は、世界的に高い評価を得ている。その名所の数々を、浮世絵と同じ場所、同じ季節、同じアングルで、現代の東京として切り取ろうと試みているのが、浮世写真家を名乗る喜千也氏。この連載では、彼のアート作品と古地図の知識、江戸雑学によって、東京と江戸の名所を巡って行く。
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