『金杉橋芝浦』:浮世写真家 喜千也の「名所江戸百景」第49回
Guideto Japan
旅- English
- 日本語
- 简体字
- 繁體字
- Français
- Español
- العربية
- Русский
東海道の名所を渡る日蓮宗の信徒たち
江戸時代の金杉橋(現・港区)は、渋谷方面から天現寺、麻布、芝を流れる古川の水が、江戸湾へと注ぐ直前に架かっていた。東海道を利用して日本橋から京都へ上る際、京橋、新橋に次ぐ3番目に通過する橋で、最初に海が見渡せる地点として名高かった。今でも同じ場所にあるのだが、江戸時代には干潟だった芝浦から東側は埋め立てられ、海はまったく望めなくなってしまった。
広重は金杉橋を渡る群衆の向こうに、江戸湾の風景を描いている。海の奥にかすかに見えるのは、築地方面の町並みだ。橋からあふれんばかりの人々が掲げる旗、万灯(まんどう)の傘、まねき(小さな手ぬぐい)には、「井桁(いげた)に橘(たちばな)」の紋があり、「身延山(みのぶさん)」と書かれたものもある。当時の人が見れば一目で、池上本門寺(大田区)の「お会式(おえしき)」に参加する人々だと分かるのだろう。
お会式は、日蓮(にちれん)宗の開祖・日蓮聖人の命日、10月13日を中心に行われる法要である。日蓮が亡くなった池上の地に建てられた本門寺には、全国から多くの信徒が集まってきた。池上からかなり離れている金杉橋が舞台なので、正伝寺、圓珠寺といった付近の日蓮宗寺院に向かう講中(こうじゅう、信徒の団体)を描いたという説もあるが、これだけ大勢が参列するのは、この時期の江戸の南で最大の行事だった本門寺のお会式と考えるのが自然であろう。
現在の金杉橋の上には首都高速道路が通り、東京湾ははるかかなたで、以前から絵になりにくい場所だと思っていた。写真はお会式間近の秋晴れの午後に、超広角レンズで撮影した。青空に加え、古川に係留中の屋形船にも光があたり、海辺の名残が感じられたので作品とした。
●関連情報
池上本門寺とお会式
1282(弘安5)年9月8日、日蓮は身延山(現・山梨県)の久遠寺を出て、湯治のために常陸国(現・茨城県)へ向かった。その途中、日蓮の信奉者だった武士・池上宗仲の屋敷(現・本門寺の子院・本行寺)で病状が悪化し、10月13日に永眠した。
宗仲は寺領として、法華経(ほけきょう)の文字数と同じ6万9384坪を寄進し、これが後の池上本門寺の基礎になったという。「日蓮聖人入滅の地」として、鎌倉、室町、江戸時代を通じて多くの武士の崇敬を受け、お会式は全国から信徒が集まる盛大な行事となり、今日に至っている。
日蓮が亡くなった日は旧暦で、新暦では1282年11月21日。しかし現在も、本門寺のお会式は10月13日をメインに11日から行われ、東京の秋の風物詩として定着している。江戸時代には旧暦10〜12月が冬とされるが、名所江戸百景でこの絵は「秋の景」に分類され、季語としての「お会式」も秋を表す。江戸で暮らす人々の季節感は今とあまり変わらず、新暦の11月あたりは晩秋で冬の直前だったのだろうか。お会式の2日目には毎年「宗祖御更衣法要」が営まれ、大堂にある日蓮聖人の御尊像も夏服から冬服へと衣替えする。
お会式の一番の見どころは、12日の夜に総勢3000人が池上の町を練り歩く「万灯練供養(まんどうねりくよう)」だ。行列に参加する全国から集まった講中は、纏(まとい)を先頭に、団扇太鼓(うちわだいこ)を打ち鳴らし、お会式桜(日蓮が亡くなった時に咲いたと伝わる桜)をかたどった万灯を担いで練り歩き、にぎわいは深夜まで続く。
2019年のお会式では、台風19号の影響で万灯練供養は中止となった。来年以降は無事開催されることを期待したい。
浮世写真家 喜千也「名所江戸百景」——広重目線で眺めた東京の今
「名所江戸百景」は、ゴッホやモネなどに影響を与たことで知られる浮世絵師・歌川広重(うたがわ・ひろしげ)の傑作シリーズ。 安政3年(1856年)から5年にかけて、最晩年の広重が四季折々の江戸の風景を描いた。大胆な構図、高所からの見下ろしたような鳥瞰(ちょうかん)、鮮やかな色彩などを用いて生み出された独創的な絵は、世界的に高い評価を得ている。その名所の数々を、浮世絵と同じ場所、同じ季節、同じアングルで、現代の東京として切り取ろうと試みているのが、浮世写真家を名乗る喜千也氏。この連載では、彼のアート作品と古地図の知識、江戸雑学によって、東京と江戸の名所を巡って行く。
浮世写真家 喜千也の「名所江戸百景」作品一覧はこちら