『八景坂鎧掛松』:浮世写真家 喜千也の「名所江戸百景」第42回

歌川広重「名所江戸百景」では第26景となる『八景坂鎧掛松(はっけいざか・よろいかけまつ)』。千葉まで一望できた大森駅付近にあった名所を描いた一枚である。

四季折々の絶景が望めた東海道近くの景勝地

現在のJR「大森」駅近くにある池上通りの八景坂は、江戸時代には人気の景勝地であった。池上通りは、かつて高台の最上部を通る道だったので、八景坂は上るのが大変なほど急な坂だったという。坂の上には、「鎧掛松」と呼ばれる高さ約20メートルの大木が立っていた。八幡太郎として知られる平安後期の武将・源義家が後三年の役(1083-87)で東征した際、この松に馬をつなぎ、鎧を掛けたと伝わっている。

広重は八景坂からの眺めを春の景として描いている。江戸湾の先、房総半島まで見渡せ、義家が一休みしたのも納得の絶景だ。坂の下には田地が広がり、東海道の目印である松の並木や、海に面した品川宿も見える。広重が描いた鎧掛松は義家の時代から数えて3代目とされ、近くには茶屋があり、かごで上って来る人もいることから当時の人気がうかがえる。

現在の八景坂は、大森駅西側を線路に沿って走る緩やかな坂である。鎧掛松があったのは、駅西口前の高台に鎮座する神明山天祖神社(八景天祖神社)の境内だという。神社入り口の案内板には、坂の上から望めた景色の中で「『笠島夜雨(かさしまやう)、鮫州晴嵐(さめずせいらん)、大森暮雪(おおもりぼせつ)、羽田帰帆(はねだきはん)、六郷夕照(ろくごうゆうしょう)、大井落雁(おおいらくがん)、袖浦秋月(そでがうらしゅうげつ)、池上晩鐘(いけがみばんしょう)』という八景が選ばれ、八景坂というようになったといわれる」とある。

池上通りから神社境内へ上る道は、正面の急峻な男坂と、うかいしてやや緩やかな女坂がある。境内は周辺で最も高く、四季折々の絶景を眺められたと推測できるが、今は周囲にビルが立ち並ぶ。3代目の松は1917(大正6)年の台風で倒れ、その切り株だけが拝殿脇に残っている。境内を見渡すと、女坂の最上部に背の高い松の木があったので撮影した。坂の角度やうかいの具合など、往時の八景坂がしのばれたので作品とした。

●関連情報

大森駅周辺

八景坂のあるJR「大森」駅周辺は、線路西側が閑静な住宅街、広重が描いた海方向の東側には商業ビルやマンションが立ち並ぶ。

古くは「大杜」とも表記し、往来の多い東海道の品川宿と川崎宿の間に位置するため、江戸時代から知られた場所であった。大森の地名が全国、そして海外にも広まったのは、1877年に米国の動物学者であるエドワード・モース博士が「大森貝塚」を発見したのがきっかけ。横浜から東京に向かう汽車の窓から貝層を見つけ、日本初の学術的な発掘調査を行い、英語で報告書を出版した。そのため、駅ホームには「日本考古学発祥の地」という石碑が立ち、大森貝塚は「大森貝塚遺跡庭園」として整備され、貝層の標本やモースの銅像などを見ることができる。

江戸時代、東海道(現・国道15号線)東側はすぐ海辺だった。15号沿いにある京浜急行の「大森海岸」の駅名は、その名残である。人気スポット「しながわ水族館」に出掛ける際には、当時の風景を思い浮かべてみると面白い。大森は大田区の地名だが、大森貝塚遺跡庭園、大森海岸駅共に所在するのは品川区である。大森駅が区の境界線に近いため、周辺には住所は品川区ながら、名称に「大森」が付く施設が他にも多い。

広重が『絵本江戸土産』で描いた鎧掛松と八景坂からの風景。鎧掛松は「震松(ふるいまつ)」とも呼ばれていたと記してある 国会図書館所蔵
広重が『絵本江戸土産』で描いた鎧掛松と八景坂からの風景。鎧掛松は「震松(ふるいまつ)」とも呼ばれていたと記してある 国会図書館所蔵

浮世写真家 喜千也「名所江戸百景」——広重目線で眺めた東京の今
「名所江戸百景」は、ゴッホやモネなどに影響を与たことで知られる浮世絵師・歌川広重(うたがわ・ひろしげ)の傑作シリーズ。 安政3年(1856年)から5年にかけて、最晩年の広重が四季折々の江戸の風景を描いた。大胆な構図、高所からの見下ろしたような鳥瞰(ちょうかん)、鮮やかな色彩などを用いて生み出された独創的な絵は、世界的に高い評価を得ている。その名所の数々を、浮世絵と同じ場所、同じ季節、同じアングルで、現代の東京として切り取ろうと試みているのが、浮世写真家を名乗る喜千也氏。この連載では、彼のアート作品と古地図の知識、江戸雑学によって、東京と江戸の名所を巡って行く。

浮世写真家 喜千也の「名所江戸百景」作品一覧はこちら

観光 東京 浮世写真家 喜千也の「名所江戸百景」 関東 浮世絵 大田区