『王子不動之瀧』:浮世写真家 喜千也の「名所江戸百景」第41回
Guideto Japan
旅- English
- 日本語
- 简体字
- 繁體字
- Français
- Español
- العربية
- Русский
江戸っ子に人気の避暑地だった王子七滝
北区の王子界隈を散策すると、起伏の激しい土地だということがよく分かる。王子駅前など線路の東側は低く平たんであるが、西側は石神井川の南東に飛鳥山、北には王子神社や王子稲荷のある丘陵地が広がっている。
江戸時代、この近辺の石神井川は今よりも蛇行しており、流れが滝のように速く、「滝野川」と呼ばれるようになった。切り立った両岸は渓谷美を成し、周辺には多くの滝があったという。中でも弁天、不動、権現(ごんげん)、稲荷、大工、見晴らし、名主(なぬし)という7つの滝が有名で、「王子七滝」と呼ばれていた。広重は名所江戸百景において、夏の景として『王子不動之瀧』、秋の景の『王子瀧乃川』で弁天の滝を描いている。
不動の滝は落差が大きく、水量も豊かだったことから七滝の中で最も人気が高かったという。広重の絵の中で、縁台に腰掛けた客は着物の袖と裾をたくし上げ、もう1台の縁台に置いてあるのは、ふんどし姿で滝浴みをしようとしている男が脱ぎ捨てたものだろうか。滝を眺める2人の女性はそれぞれ傘を手にしており、道中は強い日差しだったであろうとうかがえる。江戸の人々は、この絵を見て、夏の暑さと滝の涼とを感じたのであろう。
不動の滝があった場所は、今ではコンクリートで護岸されてしまい、滝も無いので撮影しても全く絵にならない。「王子七滝」の中で唯一現存するのが「名主の滝」なので、「名主の滝公園」で最も落差がある「男滝(おだき)」を撮影。実際に広重が描いた場所とは少し離れているが、元絵の雰囲気を出せたので作品とした。
●関連情報
正受院と王子名主の滝公園
江戸時代、美しい渓谷の行楽地として人気があった王子の石神井川流域。王子権現(現王子神社)付近では「音無川」とも呼ばれていた。この地を愛し、鷹狩りに何度も訪れた8代将軍・徳川吉宗が、故郷の紀州・熊野権現近くの音無川に倣って命名したと伝わる。
不動の滝は、浄土宗の寺・正受院の裏手にあった。この寺には、北方探検で知られる江戸時代後期の幕臣・近藤重蔵の石像がある。「名所江戸百景」ファンであれば、「目黒新富士」を造園した人物としてご記憶ではないだろうか。近藤は江戸城「紅葉山文庫」の書物奉行などを務めた後、1822(文政5)年から4年間、正受院の隣に「滝野川文庫」という書斎を建てて暮らしたそうだ。
撮影場所の「名主の滝公園」は王子稲荷神社の近くにある。安政年間(1854~60)に王子村の名主であった畑野家が、滝のある自邸の庭を開放したのが始まりという。現在は、北区が管理する入園無料の公園となっている。名主の滝は、男滝を中心とする女滝(めだき)、独鈷(どっこ)の滝、勇玉(ゆうぎょく)の滝の4つで構成される。今では水が流れているのは男滝のみで、地下水をポンプでくみ上げて流す人工滝だ。園内はケヤキ・エノキ・ヤマモミジなど多くの木々が植えられた回遊式庭園で、四季折々の野鳥が飛来し、美しいさえずりを聞かせてくれる。
浮世写真家 喜千也「名所江戸百景」——広重目線で眺めた東京の今
「名所江戸百景」は、ゴッホやモネなどに影響を与たことで知られる浮世絵師・歌川広重(うたがわ・ひろしげ)の傑作シリーズ。 安政3年(1856年)から5年にかけて、最晩年の広重が四季折々の江戸の風景を描いた。大胆な構図、高所からの見下ろしたような鳥瞰(ちょうかん)、鮮やかな色彩などを用いて生み出された独創的な絵は、世界的に高い評価を得ている。その名所の数々を、浮世絵と同じ場所、同じ季節、同じアングルで、現代の東京として切り取ろうと試みているのが、浮世写真家を名乗る喜千也氏。この連載では、彼のアート作品と古地図の知識、江戸雑学によって、東京と江戸の名所を巡って行く。
浮世写真家 喜千也の「名所江戸百景」作品一覧はこちら