『増上寺塔赤羽根』:浮世写真家 喜千也の「名所江戸百景」第37回
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東京タワーの近くにあった五重塔と水天宮
三縁山広度院(さんえんざん・こうどいん)増上寺は、東叡山寛永寺(とうえいざん・かんえいじ)と並んで徳川家の菩提寺として知られている。3代将軍・家光(1604-1651)の時代、2代秀忠を供養するために、境内の南にある芝丸山古墳の西側に五重塔が建てられたという。
広重が名所江戸百景で描いた五重塔は、文化の大火(1806年)で焼失した後に再建されたものだ。芝丸山古墳の上から、五重塔越しに古川や赤羽橋がある方面を眺めたと推測できる。古地図と照らし合わせると、古川の向こう岸に描かれた長屋塀の大名屋敷は、筑後久留米藩有馬家の上屋敷となる。
この有馬家上屋敷には、2つの名物があったという。一つは1818(文政元)年に国元の久留米から勧請(かんじょう)した水天宮で、元絵の真ん中、長屋塀のずっと奥に見える幟(のぼり)が立っている場所だ。江戸市中の人々からの信仰もあつく、塀越しにさい銭を投げる人が後を絶たなかったため、毎月5日には屋敷の門を開放したという。もう一つの名物は江戸で一番高いといわれた火の見櫓(やぐら)で、元絵の左側に描かれている。文化年間(1804-18年)に築かれて、高さは3丈(約9メートル)だったという。屋敷南の山の上に建てられたので、櫓の上からは城南地域が広く見渡せたであろう。
写真は、芝丸山古墳の西に建つ「ザ・プリンス パークタワー東京」から撮影したものだ。現在、この場所の古川は首都高速道路の下を流れていて、赤羽橋もほんの少ししか見えない。しかし、元絵の川と高速道路を重ね合わせてみると、当時の地形がイメージできたので作品とした。
●関連情報
増上寺、芝公園、東京タワー、水天宮
江戸時代、徳川家の菩提寺として繁栄した増上寺は、東京プリンスホテルなどを含む芝公園全体の土地を領有していた。その広大な境内は、1873(明治6)年の太政官布達によって、上野と浅草、深川、飛鳥山と共に日本最初の公園に指定された。
広重が描いた五重塔は、第2次世界大戦で焼け落ちるまで立っていたという。戦後、増上寺境内と芝公園の敷地が明確に区分けされ、公園が増上寺を取り囲むような形になる。五重塔の跡地は境内ではなく、芝公園内となったことなどで再建されることはなかったが、1958(昭和33)年に東京タワーがすぐ近くに造られたことは由縁を感じさせる。昭和を代表する塔を間近に眺められる芝公園には、毎日多くの観光客が訪れている。
有馬邸は明治以降、青山、そして日本橋蛎殻町(かきがらちょう)に引っ越している。それに伴い、水天宮も一緒に移転。現在は日本橋蛎殻町に東京メトロ「水天宮前」駅ができて、子授けや安産の神様として信奉されて参詣客でにぎわう。また、有馬家との縁も続いており、有馬家17代目の当主が水天宮の宮司を務めている。
浮世写真家 喜千也「名所江戸百景」——広重目線で眺めた東京の今
「名所江戸百景」は、ゴッホやモネなどに影響を与たことで知られる浮世絵師・歌川広重(うたがわ・ひろしげ)の傑作シリーズ。 安政3年(1856年)から5年にかけて、最晩年の広重が四季折々の江戸の風景を描いた。大胆な構図、高所からの見下ろしたような鳥瞰(ちょうかん)、鮮やかな色彩などを用いて生み出された独創的な絵は、世界的に高い評価を得ている。その名所の数々を、浮世絵と同じ場所、同じ季節、同じアングルで、現代の東京として切り取ろうと試みているのが、浮世写真家を名乗る喜千也氏。この連載では、彼のアート作品と古地図の知識、江戸雑学によって、東京と江戸の名所を巡って行く。
浮世写真家 喜千也の「名所江戸百景」作品一覧はこちら