『神田明神曙之景』:浮世写真家 喜千也の「名所江戸百景」第36回
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神田祭のにぎわいとは対照的な、静寂を感じさせる神田明神
江戸時代、「江戸総鎮守」として江戸っ子たちの尊崇を集めた神田明神。2年に一度開催される「神田祭」では、40本以上の豪華絢爛な山車(だし)や神輿(みこし)が市中を練り歩いたという。行列は江戸城内にも入り、将軍も見物したことから「天下祭」と呼ばれるようになり、全国的に知られる祭りであった。
神田祭は、江戸城の鎮守社であった日枝神社の「山王祭」と交互に隔年開催される。広重は名所江戸百景で山王祭の江戸城への練り込みを描いているので、神田明神でも夏の神田祭のにぎわいを題材にしてもよさそうだが、静寂を感じさせる春の曙を描いた。境内がある本郷台地から、東側の神田の町、両国(現在の東日本橋)、隅田川、深川、本所あたりの町並みまでを見渡す構図である。当時、高台にある神田明神は見晴らしが良く、朝日の名所として人気があったようだ。この絵が描かれる直前の江戸は、安政2(1855)年の大地震、安政3年の台風によって甚大な被害が出た。広重は復興を願う気持ちで、夜明けを象徴する曙の景を選んだともいわれている。
構図には広重の巧妙な演出が施されている。境内に植えられていたサワラ(ヒノキの一種)の木を中央に配しているため、太陽が昇る様子を見ることはできない。神官、巫女(みこ)、仕丁(しちょう)の目線やしぐさによって、幹の向こう側にある美しい朝日を想像させるという仕掛けだ。
早春の未明、神田明神でカメラを構えて日の出時刻を待った。境内の東側、元絵では葦簾(よしず)屋根の縁台が置かれる場所に、現在は明神会館という建物があって町並みを見下ろすことはできない。明神会館と朝焼けの空を撮るしかないと諦めていたら、朝日に染まったスカイツリーが東の空に浮かび上がってきた。スカイツリーをサワラに見立てることもでき、元絵同様に見えない太陽を想像させる写真となったので作品とした。
●関連情報
神田明神 神田祭
現在も、神田から日本橋、大手町・丸の内、秋葉原(外神田)など、東京の中心地を広範囲に守護する氏神として知られる神田明神。現在の正式名称は神田神社となっているが、今でも一般には神田明神の呼び名で親しまれている。古くは背高く飾られた山車が巡行することで有名だった神田祭は、明治以降は町中に電線が張り巡らされたことなどで渡御(とぎょ)が困難になるなど、次第に神輿を中心にした祭りへと変遷した。
クライマックスは、5月15日に近い土曜日に行われる神幸祭と、その翌日の神輿宮入であろう。2019年は、それぞれ11日、12日となる。神幸祭は、山車の渡御が変化したもので、黄金の鳳凰(ほうおう)を飾り付けた輿「鳳輦(ほうれん)」と宮神輿が山車や平安装束の人々に付き添われて巡行する。神田明神を朝8時に出発して、神田から大手町、東日本橋、秋葉原電気街などを19時頃まで練り歩く。神輿宮入は、各町内で担がれる大小200の神輿が、順番で神田神社に練り込み、威勢のいい掛け声が境内に響き渡る。
浮世写真家 喜千也「名所江戸百景」——広重目線で眺めた東京の今
「名所江戸百景」は、ゴッホやモネなどに影響を与たことで知られる浮世絵師・歌川広重(うたがわ・ひろしげ)の傑作シリーズ。 安政3年(1856年)から5年にかけて、最晩年の広重が四季折々の江戸の風景を描いた。大胆な構図、高所からの見下ろしたような鳥瞰(ちょうかん)、鮮やかな色彩などを用いて生み出された独創的な絵は、世界的に高い評価を得ている。その名所の数々を、浮世絵と同じ場所、同じ季節、同じアングルで、現代の東京として切り取ろうと試みているのが、浮世写真家を名乗る喜千也氏。この連載では、彼のアート作品と古地図の知識、江戸雑学によって、東京と江戸の名所を巡って行く。
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